いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ニュー速民たちは意外と「道徳」のある人々だった 〜きらっといきるの偉大なる冒険2〜


昨夜、ネット上で少なからぬ反響を呼んでいたのがETV「きらっといきる」のスピンオフ企画「バリバラ」のSP版、「笑っていいかも!?」だ。


障害者(しょうがいしゃ)の、障害者(しょうがいしゃ)による、障害者(しょうがいしゃ)のためのバラエティー番組(ばんぐみ)・
バリバラが2時間(じかん)のスペシャルで登場(とうじょう)します。

障害者(しょうがいしゃ)のお笑(わら)いパフォーマーのナンバーワンを決(き)める「SHOW−1グランプリ」や、
障害者(しょうがいしゃ)が体当(たいあ)たりでバラエティーに挑戦(ちょうせん)した「バリアフリー大運動会(だいうんどうかい)」、
「めちゃ×2イケてるッ!」などでおなじみの放送作家(ほうそうさっか)・鈴木(すずき)おさむさんと 玉木幸則(たまきゆきのり)さんが
コラボレーションした「障害者(しょうがいしゃ)のドッキリ」など、驚(おどろ)きの企画(きかく)が続々登場(ぞくぞくとうじょう)。
スタジオには、カンニング竹山(たけやま)さんや桂福点(かつらふくてん)さんのほか、障害者(しょうがいしゃ)40人(にん)が参加(さんか)し、
障害(しょうがい)を笑(わら)うのではなく、障害者(しょうがいしゃ)と一緒(いっしょ)に笑(わら)えるバラエティー番組(ばんぐみ)のあり方(かた)について、考(かんが)えます。


http://www.nhk.or.jp/kira/post/info_101204.html


本編で興味深かったのは、バラエティー畑で活躍する放送作家鈴木おさむや、プロのお笑い芸人のカンニング竹山、ザ・ブングル加藤、松村邦弘らいわば「現場の人」が初参戦したということ。
これまでのバリバラのレギュラー陣は、「きらっといきる」の通常放送のレギュラーの山本シュウ小林紀子、玉木幸則の三人だけで、「きらっといきる」本体とあまり代わり映えしなかった。“バリアフリー”バラエティーを標榜するこの番組において、バラエティー畑の人間を投入した今回のSPが、実は本格的な船出だったのかもしれない。





さて、僕が興味深く思ったのはこれだけではない。昨夜の放送前に立っていたこの番組についてのスレッドに訪れた人々がこの試みに対して示したのは、意外にも拒否反応、はっきりいえば「ひいていた」のだ。好意的なコメントもないことはないが、どちらかといえば否定的なコメントが目立つ。


http://alfalfalfa.com/archives/1615414.html


いわゆるジャーゴンである「池沼」をはじめ、掲示板の人々は少なくとも障害について思ったままのことを書くことについて道徳的な規制が低いと考えられていた。いや、僕はそう思っていた。
もちろんそれはネットの匿名性がなせる業ではあるが、そのことはここではさして重要ではない。注目すべきは、普段はあそこで障害についてフランクに「書くことができていた彼ら」にもかかわらず、「障害」と「お笑い」が結びついた際どい試みがいざテレビ番組となったとき、きわめて“道徳的”な拒否反応を示したということなのだ。


僕が思うに、彼らの普段のネットでの障害などの「タブー」へのフランクな接し方は、ふつうのバラエティー番組にあるいわゆる政治的正しさとしての(もっといえば視聴者からのクレームをおそれての)「バラエティーで障害をあつかってはいけない」という道徳的な不文律と、実はネガとポジの関係をなしているのではないだろうか。





ここではおそらく、「ヴィクトリア朝的メカニズム」と呼べるものが働いている。
簡単に説明すると、ヴィクトリア朝と称されているのは19世紀から20世紀初頭にかけてのイギリスであり、この時代は極めて性道徳の規制が強かったと言われている、ただし「オモテ」向きには。その一方、実はヴィクトリア朝は水面下で売春が市場として飛躍的に拡大した時代とも言われている。つまり、抑圧が強い「オモテ」の面がある一方で、抜け道的に「ウラ」の面の形成が着々と進んでいった時代なのだ。


光が強いほどより濃い影ができる。それと同じように、「オモテ」があるからこそ「ウラ」が生まれる。
これは、ほかの「規制」にも当てはめることのできる汎用性の高いメカニズムだ。実際に、禁酒法時代のアメリカでは酒がマフィアの資金源になった。日本でも売買春の規制が強まるたびに社会学者が「(売買春が)地下に潜る」と危惧するのも、実はこういったメカニズムが考えられるからだ。現在一番ホットな規制の対象は「非実在青少年」だが、条例が可決されることによって起きうる問題は表現の自由の侵害だけでない。「規制」があることでそこに利潤が生まれ、“闇の組織”の資金源になることだって考えられる。エロマンガ読者らが打ちっぱなしの地下室でヤクザにペコペコしながらエロマンガを受けとる図が、わりと「非実在」なことでもないように思えてこないだろうか。



閑話休題
今回の「笑っていいかも!?」をめぐる某巨大掲示板の住人たちの拒否反応。実はここにも「オモテ」と「ウラ」と、その間にある共犯関係が見え隠れする。「オモテ」での「バラエティーで障害をあつかってはいけない」という道徳の不文律と、障害をネタにする某掲示板的な「ウラ」の振る舞いは、一見反目しているように見えて、実は手を取り合っているのだ。「オモテ」が「ここまで」と線を引いてくれるからこそ、「ここまで」の線の向こう側に「ウラ」が「ウラ」として成立する。「オモテ」の道徳律に縛られているからこそ、「ウラ」の“反”道徳なのだ。


彼らは道徳律からなんら「自由」になっているわけではない。彼らは「道徳的な人」ではないが、「道徳に縛られた人」ではあるのだから。





障害とお笑いの「接続」についてこれまでも二度書いてきた。これまでと同じく、彼らの様に「そんな番組を放送するなよ」と僕は思わない。


最近ネット民を熱くさせている「記者クラブ問題」で、ひとつ気づいたことがある。メディアが一番の「威力」を発揮するのは、対象を「いかに伝えるか」のその仕方ではない。もっとも威力を持つのは、対象を「伝えるか伝えないか」においてなのだ。これまでバラエティーが「とりあげない」という方法で障害をネグレクトしてきたのは、“善意”の所産ではあるものの、今現在支配的である障害者を福祉の対象としてあつかう(としてしかあつかわない)という道徳律をなぞり、より強固なものにすることに加担したと言えなくもない。「腫れもののように扱う」ことの権力性がここにある。


だから、障害とお笑いの「接続」を「伝える」ことに踏み切り、そんな道徳律に風穴を開けようとしているこの番組スタッフの選択を、僕は一つの英断だと考える。


かといって、これをこれで持ち上げすぎるのもまた一つの「差別」だといえる(うーむ、ややこしい)。内容としてどうだったのか、ということももちろん精査が必要になってくる。だが、「障害者はバラエティーに出るな」と「面白くないからバラエティーに出るな」ということの間には、千里の径庭がある。出演した脳性マヒブラザーズのネタを見るにつけ、たしかにまだまだ技術的には難があるように見える。しかしそのことと「障害者であること」は、別々の問題なのだ。



「障害者だとさすがに笑えない」ということもよく言われる。だが、それは本当にそうだろか?


僕は、「笑い」の可能性を、ベタに信じているところがある。
ある放送作家が言っていた。長年連れ添った夫の葬式で終始落ち込んでいた知り合いのおばあちゃんが、葬式の後の会食の席で面白いことがあって突発的に「ゲラゲラ」笑った、正確に言えば笑ってしまったというのだ。その一瞬に限っていえば、笑いがそのおばあちゃんの悲しみにくれていたはずの感情を一掃した、と言えないだろうか。
それは喜怒哀楽という感情のカテゴリーでくくられるものではない、もっと動物的な理性も道徳もまとわない衝動に近い。その突発的な、瞬間的なカタルシスが、「笑い」にはある。道徳だとか障害だとか、病気だとか死だとか、そういったタブーの壁をもぶっ壊してしまうカタルシスが。





先日、ナイナイの岡村隆史が約5か月の療養期間を経て仕事に復帰した。復帰第一弾は、土曜8時の彼らの代名詞といえるバラエティー番組『めちゃイケ』だった。番組はチリでの落盤事故救出劇をパロった感動を誘う演出に成功したように見える一方、「なんで休んでたの?」ということがいまいちわからない内容になっていた。
それに対して、その次の週に放送された復帰後初の『ナイティナインのオールナイトニッポン』において彼は、ずばり自分が「ぷーんとなった」ことを、つまり休養の真相が「心の病」であったことを、病名以外ほとんど赤裸々に告白したのだ。





「心の病」についても、先の「メカニズム」があてはまる。僕らは「心の病」から道徳的な不文律によって目を逸らそうとする(バラエティーではあつかわない)一方で、“道徳的”にそれを差別する(就労でこの手の病歴を持つ人が不利にあつかわれることはよく知られている)。


「感動」の要素を多分にとりいれた「めちゃイケ」と、普段はネタはがきのどうしようもない「下ネタ」が飛び交い感動の要素が乏しかった「オールナイト」。今回どちらが僕の心に残ったかというと、断然後者だった。「めちゃイケ」と比べ「オールナイト」の方が、はるかに大きな「笑い」と、そして「感動」を与えてくれたのだ。
それはきっと、岡村隆史本人が彼の口をとおして、自分が「心の病」であったこと、実際に起きた症状の数々、療養前そして療養に入ってからの相方・矢部浩之やマネージャーらとのやりとり、家族の支え、そして仕事に復帰するまでを通して得た相方や周りの人への「愛情」、そのすべてをひっくるめて話の「ネタ」に、笑いに還元したからにほかならない。



「笑えないもの」が「バラエティー」と接続したときに、「感動」に回収しきれない衝動としての「笑い」を生み出すことを、「お笑い」の可能性を、もう少し信じてみてもいいと思った。




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