いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「面白い体験」は「面白い話」ではない 〜お笑いオセロの法則試論〜

つい先日、お笑いについて語ること自戒していたのに、またこういうことを書いてしまう。いや、今回は笑いというよりも、ユーモアだということでどうかお許しを。


先ほど、堂々たるスカルプD一社提供のバラエティ番組『芸人報道』が放送されていた。今回は特別ゲストとして番長清原していた。芸人が記者にふんしていろいろなエピソードをネタとして話すのがこの番組の趣旨である以上、話題は清原自身の持つエピソードへ。
以下、そのときに清原が話した話。



清原が巨人時代に体験した話である。
当時広島に在籍していた2メートル級の外国人投手(この時点でカープファンはだれだかわかるだろう)と対戦した時三振してしまった直後、相手投手にマウンドから言ってはならない英語四文字を言われた彼は、そこは悔しさをたえ黙ってベンチに下がった。
だが翌日、同じ広島戦の前の練習中に怒りのおさまらない清原は、通訳のスタッフを連れてその投手のもとに向かった。清原はそこで、「ここでやったってええねんぞ」など例のコテコテの関西弁で相手外国人選手に啖呵を切ったのだが、あまりに冷静に通訳が英語を話しているので「なんて訳してんねん?」と不安になって彼が聞くと「こちらは戦闘の準備はできている」と訳していたなど、そのちぐはぐなやりとりが面白かった。スタジオの面々も爆笑に包まれた(ちなみにケンカにはならなかった)。


ここで考えたいのは、「実際の現場はどうだったの?」ということだ。
おそらく、ものすごい形相で清原は相手選手のもとに向かったに違いない。相手も先に述べたとおり、大男だ。そんな二人が近距離で相対する一触即発の状況なのだから、連れて行かれた通訳の人もたまったもんじゃないだろう。


何が言いたいかというと、おそらく当時の現場では、それほど「面白い体験」ではなかったのではないか、ということだ。当時の状況を直接知るものからすれば、このエピソードはきっと(気持ちをすり減らした)「つまらない体験」であったに違いない。


これがどうだろう。それを清原が現場を知らない人たちに話してみれば、今度は「面白い話」に反転した。


ではこの「清原がした面白い話」というのを番組で見たという話を、今度はあなたが次の日に、番組を見ていなかった友達に話すとすると、これが途端に難しくなる。
順序でいうと、清原の実際に体験した(気持ちをすり減らした)「つまらない体験」→清原がその体験をテレビで披露して「面白い話」になる→清原の「面白い話」してあまりウケをとれなかった一般視聴者の「つまらない話」、というようにきれいに交互に来ていないだろうか。


反対に、順序が「面白い体験」から始まるならばどうなるだろう。
あなた自身の経験を思い返してほしい。面白いエピソード、とりわけ、自分自身も含むその場全員が爆笑したようなエピソードを、その場にいなかった人に伝えることをシミュレートすると、意外とこれは難しいということがわからないだろうか。いや、むしろ積極的にシラケるのではないか。相手の愛想笑いという、最善にして最悪の“善意”に乗っかってしまうみじめさをあなたは味わうことになるだろう。

面白い話というのは、たいてい文脈依存である。その面白さの構造を正確に分析し、なぜ面白かったかを考えなおした上で話を構成しないと、実は「面白い話」にはならない。


おそらく、抱腹絶倒の「面白い体験」→それを話すと「つまらない話」になるのだ。ほら、さきほどのが黒→白→黒だとすれば、こっちは白→黒という具合になっている

僕の個人的な経験を振り返ってみると、成人してから一度、大の大人からものすごい剣幕でブチ切れられたことがある。その経験自体かなり落ち込んだし面白くもなんともなかった。しかしその後、この話を知らない他の人に話すとなると、これが100発100中、とまではいかないものの、なかなか外すことのない「面白い話」に反転するわけだ。


もちろん、話芸に長けたプロのお笑い芸人とは話は別だろう。彼らの中には、どんな些細な出来事でも脚色と編集によって、これでもかという面白い話にすることができる人がいる。

だが僕ら素人としては、この法則はけっこう有用なんじゃないだろうか。知人とだべっていて、「面白い話ないの」なんて言われた際、僕らはついつい脳内のデータベースから「面白い話」タグのついた話ばかり検索しがち。しかし、実はむしろ逆だったのだ。自分にとってつまらない話、不快な話、腹の立った話ほど、話した相手を笑わせることができる可能性を秘めている。


ぜひ一度、お試しあれ。