いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「自己責任」ってその人の社会への信頼度チェッカーなのかも仮説

日航:子会社の操縦士訓練生26人 事実上の内定取り消し
 
 経営再建中の日本航空(JAL)グループ会社、ジャルエクスプレス(JEX、本社・東京都、清水佳人社長)が、自社養成のパイロット訓練生として入社予定だった内定者26人に事実上の内定取り消しを言い渡していた。JEXは日航が破綻(はたん)した今年1月以降も「採用方針に変わりはない」などと内定者側に説明しており、突然の“手のひら返し”。JEXの経営見通しの甘さが問われそうだ。

(以下略)


http://mainichi.jp/life/job/news/20100905k0000m040101000c.html

このニュース、どうみても内定者には落ち度はないと思うのだけど、世の中にはいろいろなものの見方があるもので、自分の価値観の絶望的な偏狭さを痛感させられる。


代表的な例がこれ↓

124 : 客室乗務員(宮崎県):2010/09/07(火) 02:42:14.74 id:bK0qRCMDP
JALとか危ないと散々事前に情報が出てたのにな
そういう会社の内定で安心してたとしたらそりゃ自己責任だろう
俺ならやばいと思った瞬間にけって他行くけどな


(強調引用者)
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1540666.html 


たしか2003年のイラク人質事件のころに流行していた言葉だが、巷でのこういった用法は、すでに識者からはっきり誤用であると指摘されている。例えばこれ↓

自己責任とは、本来、近代法の基本原則で、人は自分の負うべき責任のみを負い、他人の責任まで負うことはない、と言うことです。従って他に、責任を負う者が居るのに、事実上全責任を負うことを強いられている者の「責任」を意味するものではありません。


(強調引用者)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%B8%CA%C0%D5%C7%A4

企業と内定者の間には、雇用契約といういわば「約束事」が結ばれていたわけであり、向こうにその約束を反故にされた以上、内定者は責任をとりたくてもとる責任がないという話である。だからここで自己責任の概念を持ち出すのは端的に言ってまちがっている。


だが僕はまちがいであろうと、このような形で使われる俗流「自己責任論」と、それを使う時の人の「気分」の方に興味がわく。

まず、人はどんなときにこの俗流「自己責任論」を振りかざしたくなるのか。例えばギャンブルや株をやることに対して、「自己責任でやれ」とはよく言われるが、こういった使い方に違和感を覚える人は少ないだろう。では、今日買ってきた弁当が腐ってて腹を壊した。これに対して「買ったお前が用心しなかったからだ、「自己責任」(ドーン!)」とかます人は、あまりいなさそうだ。


そんな例をいろいろ考えていると、どうも「自己責任」を口したくなる気分は「んなの信じれるわけねーよ」というものに対して程(それは統計データに基づいているというよりあくまでイメージであるが)、強まるのではないだろうか。ギャンブルや株で儲かるということなど、「んなの信じられるわけねーよ」という対象にはまり、かつなんらかの損害を被った人にこそ、人は「自己責任論」をかましたくなるのだ。一方、買ってきた弁当がまさか腐っているとはだれも思わないわけで、自己責任うんぬんといいたい気分にはなりにくい。


ということはである。今回のこのJALの一件で「自己責任論」を振りかざせるという人にとっては必然、JALという大企業そのものが「んなの信じられるわけねーよ」の部類に入るほどいかがわしいものに成り果ててしまったということなのである。
象徴的なやりとりがなされていた。

207 : 潜水士(アラバマ州):2010/09/07(火) 03:00:54.65 id:PmtdSXH/0
自己責任とか意味分からん。
明らかに会社側のやってることはおかしいし、許されないだろ。
どこをどう考えたら学生が悪いことになるのか。


213 : 客室乗務員(宮崎県):2010/09/07(火) 03:03:00.14 id:bK0qRCMDP
>>207
それとこれとは別だよ
極端な話になるが詐欺師に騙される人のようなもの
気をつけてれば防げるんだよ
2003年のイラクの件で、自己責任論が 
のちに多くの識者によって


(強調引用者)
(同上)


借りにも、日本を代表する(してた?)航空会社である。その会社の出した「君を雇ってあげるよ」というお墨付きが、もはや彼らにとっては「詐欺師」からの悪魔のささやきに等しいということなのである。


ことわっておくと、これは法的な問題ではない。何を疑い何を信じるかは、その人の価値判断の問題だ。疑り深い人ほど、世界には「んなの信じれるわけねーよ」というものばかりになるだろうし、「自己責任」を口にしたくなる場面は増えていくはずだ。


疑り深いということは、けっして悪いことばかりではない。人間、何でもかんでも信用するべきではない。親には子供のころから、「保証人だけにはなるな」と口酸っぱく教えられた。それはそうなのだろう。だが、なんでもかんでも疑ってかかるというのも、これまた少し、生きにくい。とおりすがりのおっさんが殴りかかってくる危険性まで疑っていたら、らちがあかない。


どこからさきを「んなの信じれるわけねーよ」の線を引くかは人それぞれだと思うのだけれど、企業のせっかく出してくれた雇用契約まで「んなの信じられるわけねーよ」と疑心暗鬼タグを貼って生きるというのは、僕からすればきわめて心臓に負荷のかかる世界認識だと思うのだった。