いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

沢尻エリカが高城氏に抱いた「かけがえのないキモさ」について

おそらく日本人で最も悲惨なゴールデンウィークをすごした一人は沢尻エリカの夫、いや、もはやこの「夫」の前にもうっすら「元」という字が浮かび上がりつつあるのかもしれない。ハイパーメディアクリエイター高城剛だろう。


実際にエリカ様が高城氏のことを「キモい」と言ったり思ったりしているのかはわからないけれど、一応ここでは彼女は実際にそう言っていて、彼女がそう思ったことが彼との離別の原因の少なくとも一つである、ということが事実であるとして書くと、これって一般市民にとっても他人事ではすませられない問題なんじゃないかと、僕は思う。



先々週の「5時に夢中!」木曜日のレギュラー美保純が、この件についてのコメントで彼のことを「キモいよ、私は前から思ってた」と豪語していた。どうもネットを見ていても、「彼のことを前から実はキモいと思っていた」という見解は少なからず拾える。

この場合、ほとんど高城さんと接したことのないであろう世論がいう「キモさ」というのは、おそらく外見的、表層的なキモさのことなのだろう。それは例えば、街中でたまたま見かけた、鼻から鼻毛がこんにちはしたおじさんに対して女子高生が「キモwww」と言っているときの「キモさ」、いわば「一般的なキモさ」である。

ということはだ。沢尻エリカは、みなが以前から感じていた彼の表層的、「一般的なキモさ」を、世論からはるかに遅れて気づき、今さら別れたくなったのだろうか。


バカいっちゃいけない。彼女は天下のエリカ様である。あんなのがクラスにいてみろ。外見にちょっとでも難あるクラスメートの「一般的なキモさ」を目ざとく見つけ、自分が頂上に立つスクールカーストの底辺にそういった人々をたたき落としそうな御人にちがいない、あくまで想像だが。彼女が高城に感じた「キモさ」はそういう、われわれ凡人だって感じれるような「一般的キモさ」ではないはずだ。



僕はこのニュースを見るたびに、野菜ソムリエの王理恵がそばをすする音が元で医者と婚約を解消した事件を、思い出さずにはいれない。あのときもそうだった。人は、ある日突然、特に親しくしていたある特定の存在に対して、もはやどうしようもないほどの「キモさ」を感じることがあるのだ。この特定のある人に対して抱くキモさを、「かけがえのないキモさ」と呼ぼう。


この「かけがえのないキモさ」は「一般的なキモさ」とは別物だ。前者に比べれば後者なんてまだまだチョロい。多くの場合それは、「キモい」と言っている側が言われている側と、親密な交流を持っていないのだから。それは教室でいじめると決めた相手の一挙手一投足を「キモいキモい」と言っているいじめっ子と同じで、言われる方はもちろん傷つくだろうが、基本的に意味はない。

「かけがえのないキモさ」はそうではない。エリカ様が垣間見た「キモさ」は、表層的な「一般的なキモさ」をまず乗り越えた先で深い愛情にいたり、さらにそれがある契機を境に反転したところにあるエリカ様が世界に一人だけ、高城氏だけに感じた「キモさ」のことなのだから。

これはもしかして、フロイトのいう「不気味なもの」に近いかもしれない。ドイツ語で「不気味な」「気持ちの悪い」を意味するのは「unheimlichi」という形容詞で、接頭辞の「un」は否定の意味があり、「lich」は英語の「ly」のような形容詞をつくるための接尾辞になっていて、真ん中の「heim」というのは、実は「わが家」という意味を指す。
つまり「不気味なもの」とは、それまで主体にとってまったく縁遠かったものというよりも、ふだんから慣れ親しんでいるはずの「わが家」のようなものが突如として反転したものであると、フロイトは言いたいわけだ。もしかして、この「不気味なもの」こそ、僕のいいたい「かけがえのないキモさ」なのかもしれない。



閑話休題
ということはである。これは、学校や職場などで周囲から常日頃「キモい」と口々に言われる「一般的にキモい」人たちだけの問題ではないということになる。おそらく人はみな、突然ある特定の相手に対してどうしようもなくキモくなり、突然ある特定の相手のことをどうしようもなくキモいと感じてしまうような生き物なのである。そしてこの一線を越えたら二度とは戻れない。もう二人の関係の修復は不可能だ。


ではこの、「突然ある特定の相手に対してどうしようもなくキモくな」ったり、「突然ある特定の相手のことをどうしようもなくキモいと感じてしまう」ことは、防げないのだろうか。たぶん不可能だろう。例えばお互いが相手にとって、なるべくキモくならないように常日頃からふるまいに気をつけるなどと対策を練ることはもちろん可能だが、それがはたして「突然ある特定の相手に対してキモくな」ることを食い止めているのかなんかは、計りようがない。


だから畢竟、僕らはだれかと恋愛をしている間中、いつ相手に「かけがえのないキモさ」を感じさせてしまうか、そして相手に「かけがえのないキモさ」を感じてしまうか、そのことについて怯え続けるしかない、というわけなのだ。