いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ヤンキーがもてはやされているのは「わかりやすく恐い」からだろ


北仲スクールの公開講座もあと一回になりました。過去5回はいつもイスが足りなくなるほどの盛況ぶりで、ほっと胸をなで下ろしておる主催者一味の一人です。今週水曜7時からの最終回は、メンズナックルの編集長さんとモデルさんがいらっしゃいます。ぜひぜひみなさま、お誘い合わせの上、ご来場くださいませませ。


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ところで前回の講演のテーマは「ヤンキー」であった。なぜだか最近、ヤンキーが熱い。いや、ヤンキー自体は常日頃から血わき肉おどっているのかもしれないけれど、ヤンキーの周囲も熱いのだ。つまり、ヤンキーを論じる側も。
ヤンキーをまじめに論じた書籍もこの1,2年で顕著に出版されている。

ヤンキー文化論序説

ヤンキー文化論序説

ヤンキー進化論 (光文社新書)

ヤンキー進化論 (光文社新書)

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち


言論界≒出版業界におけるこのプチヤンキーブームは、いったいなぜ起きているのか。
真っ先に思い浮かぶのは、“新ネタ”だからということだろう。思い返せばゼロ年代(笑)の言論界は空前のオタクブームだった。オタクを論じれば無条件に高尚な「現代文化批評」になっていくというあの不思議な現象。気がつけば、総数はそんなに多くねえだろというオタクの属性を論ずれば即日本論になったわけである。しかしお寿司も話題も、ネタは常に新しくないとならない。さんざんそれを読まされた読者はもう、オタク論には食傷気味だ。そういうことで新たにまな板に上げられたのが、このヤンキーではないのか。


しかし、この新ネタだから取り上げるというのは、あくまで言論界や出版界にとっての事情な訳で、新ネタであるならばヤンキーでなくたってオナニストでもスイーツ男子でも弁当男子でも森ガールでもよかったはず。ヤンキーが選択されたのには、そもそも社会の「ヤンキー需要」なるものが以前よりも増しているからなのだろう。斉藤環酒井順子との対談本で広義のヤンキーは7割と、いったいどこでそんなデータ取ったんだという話をしていた。でもしかし、自分はヤンキーでないものの「ヤンキー的なものに惹かれる」という人、例えば浜崎あゆみやエグザイルに親近感を持つという人なら、もしかするとそのくらいの割合なのかもしれない。


このことについて、知人のH先生から興味深い説を聞かせてもらった。なぜヤンキーあるいはヤンキー的なものがもてはやされているのか。H先生の答えはこうだ。
「わかりやすいからだろ」
これがH先生のいう説である。その人いわくヤンキーという属性の人は、「わかりやすく恐い」のだ。恐いにかわりないが、恐いことがわかりやすいため、むしろ周囲に安堵を与える。反対に、ニュースで報道される殺人などの凶悪事件。現場の近隣住民などが取材に答えた際、ここまで門切り型も珍しいだろというまでに彼らは口々に言う、「ごくふつうの人でした」と。殺人のような凶悪な事件は、ヤンキーのような「わかりやすく恐い」人より、もっとずっと、「ふつうのよくわからない人」が引き起こすことの方が多いという雰囲気が、マスメディアをとおして僕らには日々伝わってくる。


ヤンキーに真夜中、家の前をバイクでブンブン走られるのはもちろん迷惑だし恐くもあるのだけれど、逆に言えば彼らがパンピーに与える脅威などその程度に過ぎないともいえる。彼らの怖さは「上限」が決まっているのだ。

それに対して、属性のよくわからない人はどうだろう。例えば「アキバのカトウくん」。彼がオタクかどうかが問題ではない。それよりも、ぱっと見でヤンキーのようなわかりやすいラベル貼りができないことにおいて、彼と同じような「ふつうの人」は不安要素(by田岡茂吉)として周囲に怖さを与える。そして考えるまでもなく、社会は「ゴスロリ」やら「短車に土禁」やら、わかりやすい記号をもたない「よくわからないふつうの人」の方が大半な訳で、そちらの方を今や人々(自分だって「よくわからないふつうの人」にも関わらず)は怖がっているのではないか、というのがH先生の仮説だ。


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なるほどこれはおもしろいと思った。そんでここに書いたわけだ。そして、ここからが僕の考えたことなのだけれど、このH先生の話について考えていたら、以前大澤真幸の本にあったリスク(risk)とデンジャー(danger)の違いのことを思い出した。日本語の危険というのは、英語では「リスク」と「デンジャー」という二つの訳語に分かれる。両者は同じようにみえるけれど、実は少し違う。そして現代社会を指して「リスク社会」と呼ばれるように、社会学者のギデンズはデンジャーではなくリスクこそを、「近代の本質的な特徴」挙げているというのだ。いったいそれはどういうことか。

リスクは、選択・決定との相関でのみ現れる。リスクは、選択・決定に伴う不確実性(の認知)に関連しているのだ。リスクとは、何事を選択したときに、それに伴って生じると認知された――不確実な――損害のことなのである。
大澤真幸『不可能性の時代』


前近代は身分によって職業は生まれたときから決まっていた。武士の子は武士で、農民の子は農民。そんな農民に用意されていた「危険」というものには、例えば冷害などによる飢饉がある。しかしそれは、「自らの選択の帰結とは認識されていない」ため、リスクではなくデンジャーだ。
一方身分から解放された市民の場合はどうだろう。自由にはなったものの、その分いろいろなことを自己決定しなければならなくなる。その選択肢は多いが、すべてが「正解」だとは限らない。就職した会社がつぶれる、内定取り消しの目に遭うなど、選択肢はそれぞれ特有の危険をもはらんでいるのだ。そんな近代特有の危険こそが、リスクなのである。

もちろん、それは会社という大きな組織に限らない。人だって、もはや普段の服装からは何者かは判別できないという意味では、リスクをはらむ存在なのだ。電車で隣り合わせた大学生、こいつ小林よしのりなんて読んで大丈夫か?(しかもカバーもつけずに公衆の面前で)とか、大学でよくわかんない演説を繰り広げている自治会とか。何を考えているか「よくわからないふつうの人」はそれだけでもうリスクなのだ。もちろん、大澤真幸その人だって大学のゼミ生たちにはリスクだったのかもしれない。おっと、今ブラックジョークが入りましたよ。

閑話休題。その意味で、ヤンキーとはリスクではなくむしろデンジャーなのではないだろうか。繰り返しになるがデンジャーは見るからに危ないという危険のことだが、ヤンキーこそがこの後期近代、希に見るデンジャーなのだ。(間違ってもそれは、「おらぁデンジャラスな男だからよぉぉ」というときのそれとは全く別物なので、あしからず)。


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では、リスクとデンジャーはどちらが「まし」なのだろうか。もちろん地震などの天変地異というデンジャーは恐ろしいが、その分事前に対策を建てることができる。予測はできるし、一度対策をしていれば万全であったりするから、ほうってもおけるのだ。一方、リスクはどうか。リスクはデンジャーに比べると、頭を使わされる類の危険だといえないだろうか。デンジャーは近づかなければいいが、リスクはその場その場で考え、自らそれへの対処法を編み出さなければならない。そして、そんな頭を使わされるリスクだらけだからこそ、この社会は「リスク社会」と呼ばれているわけだ。


そしてこれは個人的な予想だけれど、易きに流れるという意味では、リスクよりもデンジャーを楽だと思う人の方が比較的に多いのではないか。めんどうなリスクより、わかりやすいデンジャー。そうなると、ヤンキーの方が、「よくわからないふつうの人」よりもとりわけもてはやされるのは、至極当然の帰結だろう(「ふつうの人」がもてはやされる図というのを、僕自身明確には想像できないのだが)。


というわけで、この話は悲惨な結論に行き着く。
ヤンキーに人々が親和性を抱いているとすればそれは、彼らともっと近づきたい、もっと仲良くなりたいというわけではなく、むしろ彼らの方が危険として「まし」という、まことに消極的な理由なのである。