いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

テレビゲームが楽しめないから僕はついに「大人」になってしまったのだ

年末年始は実家に帰っていたのだけれど、例のごとくやることがない。しかたなく、三日から四日でクリアできそうなめぼしい物でも見繕って時間をつぶそうかなと思い、僕が小学生のころからある地元の中古ゲーム屋へ自転車を飛ばした。


実家には今PS2があって、そのコーナー(といっても、今では端のほうに追いやられたもんだ…)で探していたのだけれど、ないのである。何がか?やりたいと心のそこから思うようなソフトがである。

これは近頃のソフトがつまらないという、僕の外的要因ではないと思う。RPGにしろアクションにしろ、棚の端から端まで血眼になって探した挙句、ジャケットのふれこみから「そいつ」を信じて買って、家に連れて帰り、信じた「そいつ」をハードに入れてみて、もしも「そいつ」が僕の期待を裏切るつまららなさだったとしたら...、自分がその時に味わう脱力感やらストレスやらに耐えられるのかがはなはだ懐疑的なのである。以前は、その同じ店のワゴンセールで売っているような二束三文のスーファミの「クソゲー」を何本か買って帰ってきては、弟と「なんだこの操作性(笑)」とか、「その技いるか?(笑)」とか、半分バカにしつつも楽しんでいたのだけれど、いまやその気力さえないかもしれない。ことにゲームに関しては。


でも実は僕のこの症状は、もっと前から発症していたのかもしれない。数年前からは、ゲーム全般というよりもRPGだけ、どうも耐えられなくなってしまったのだ。もう最初の、「あなたの名前を入力してください」の時点で心情的には半ば腰砕けになってしまう。「うわっ、いい名前思いうかばねぇ」と。それで始まったら始まったで、最初の村で妙に説明くせー長老の話やらなんやらで前置きが長く、この時点で僕という勇者はその世界の命運を見放しかけている。これまでのも、何作、いや何個もの止まったままの世界が、僕に救われることを今か今かと待っている。もしかすると、クリアできなかったゲームの方が多いのかもしれない。たしかドラクエ7も最後まで気力がもたなかったなぁ。えっ、あれはソフトが悪いって?


僕のこのRPGに対する無気力の症状というのはなんというか、要するに「別に俺がやらなくても誰かが魔王を倒して世界を平和にしてくれるわけじゃん?」と思ってしまうからだなのだ。別に俺があくせく戦ってレベル上げをしなくったって、もしかすると真向かいの男の子が代わりに世界の光を取り戻してくれているかもしれないし、そうでなくても全国何万人の主人公たちによって世界の、村の平和は、取り戻されているのだ。そういう考えがすっとよぎると、「俺しなくていーじゃん」となるわけだ。別に俺の生きていることに必然性がないじゃんという、精神衛生上普通ならぶつからなくてもすむ壁にぶつかるという点で、これRPGうつ病だと呼べば、本当のうつの人に怒られるだろうか。


それにしても世間の人はみんなRPGが好きだ。ファイナルファンタジーの最新作も長蛇の列ができていたという。なんたって、学校の先生が児童ほっぽりだして買いに行くんだから。発売当日の朝のニュースでやっていた。凍てつくような寒空のした、朝からみんな我慢してならんでいた。あの後彼らは寒さから解放されるやいなや、暖房の効いた部屋でまた別の過酷な戦いを始めるのだろう。ご苦労様です。


RPGみたいに物語の順序が決まってないということで、一時期コンビニやら学校を作るシミュレーションをやりこんだこともあるが、どんなにコンビニで億万長者になっても外に出て「よ、社長さん!!」と肩をたたかれるわけでなし(当たり前だし)。そう思うと、ゲーム上で金持ちになってチェーン店を拡張していけばいくほど、自分の身の程との落差を思い知る羽目になる。


ということで今僕は、神様にすがりつきたい気持ちだ。

「ねぇ神様!!僕はもはやゲームを楽しめなくなってしまったんですぅぅぅぅ」

すると、神様はこう言い残して去っていくのかもしれない。

「フォフォフォ。馬鹿者。それが「成熟」というやつじゃよ」


なるほど、僕が子供のころからのおかんの口癖「大人になって××する人が考えられん」の××の箇所には、マンガやゲームが入ってたっけ?でもやはり、周囲の人間の十人中十人が僕の「大人」になった説に、首を横に振って否定するだろうから、どこかにテレビゲームの「代替行為」があるはずで、すぐに思い浮かぶのは実はこのブログだ。
実は文章を書くことは、僕にとってネトゲと同じ感覚なのかもしれない。