いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

化粧とは自我にほどこされるものなのである


世の中には「醜形恐怖」という名の精神疾患に苦しんでいる人がいるという。自分の顔や身体が、極度に醜くて他の人からも実はそういう風に奇異な視線を注がれているのではないか、と考えてしまう、一種の強迫性障害だ。
そんな障害を患ったある若い女性についての短い特集を昨年末、フジテレビのスーパーニュースでみた。再現映像なんかでなく実際に闘病中の人が出てきたので、その分よほどに生々しかったのだけれど、おそらくテレビの前にいた人そのほとんどが、カメラが玄関を開けて出てきた彼女を初めてとらえたとき、瞬間的に思ったはずだ。



「全然かわゆいし(ブスじゃねーし)!!」



絶世の美女とはいえない。しかし分類するとすれば彼女は間違いなく「ブス」の棚ではないし、「ふつう」のタグをつけるべきかもしれないが、かといってその中でいえば比較的かわいいほうに分類されるだろう。

重要なのはこの疾患が、「ブス」が自己の「ブス」さに悲観して罹るという単純な図式の代物ではないということだ。「美人」だろうとなる人はなるらしい。つまりそれは、極度な「思い込み」なのだ(もちろん“そうである”ということもあるのかもしれない)。

そんな彼女の悩みは実に深い。日中に外出すると他人が自分の顔について噂している言葉が耳に入ってきてたまらず*1、出歩くのはもっぱら夜中に限っている。一日の部屋での行動を固定カメラで撮ってみると、太ってますます醜くなるという不安から、室内でのフィットネスに余念がないことがわかる。単なるひきこもり、でもないのだ。定期的に、ぴったり閉じたカーテンから外を恐る恐るのぞく。誰か見ているかもしれないことを、彼女はおそらく寝ていない間中恐怖しているのだ。


しかし、彼女は一大決心をする。美容整形だ。整形して、もっと美しい顔になりさえすれば、自分は普通に生きていけるのだと。


繰り返すが、おそらく彼女の顔を見た大多数の人にとっては、彼女は生まれたままの、ありのままの素顔だとしてもぜんぜん卑屈にならなくてもいいのに、と思うはずだ。整形することを僕が彼女の知人であればきっと止めるだろうし、実際に彼女と親しい叔母は、最初はそのことに反対していたという。しかし結局、彼女は整形に踏み切ることとなる。

術後しばらくして番組が再び訪れてみると、彼女は言葉通り、以前までのひきこもりから脱却し社会化を遂げていたのだ。今では昼夜を問わずに外出できるし、人ともまともに話もできるようになったという。自活するため早速、仕事も始めたらしい。


そういう風にして、その特集はめでたしめでたしと終わったのだけれども、僕が思ったのは彼女にとって重要であったのが、整形して確固たる美しい顔を手に入れることではなくむしろ、美しくなるために整形するという行為それ自体が、その病克服への通過儀礼だったのではないだろうか、ということ*2


でもこれって、そこまで特殊な事例ではないんじゃないかと。
よくテレビである企画に、すっぴんお披露目のような趣旨のものがある。最近だと、昨年末に放送された「世界仰天ニュース大変身ビューティースペシャル」内でのそれがあった。普段は化粧バリバリのギャル系モデルや、アイドルらが数人ゲストとして来ていたのだけれど、彼女らが本番前の、まだメイクする前に撮った写真が次々と披露されていた。そんなときも、ある定番のリアクションというのがある。


「すっぴんも、意外とかわいくねぇぇぇぇぇ!?」


紋切り型ってのはこういうことをいうのかもしれない。前段の番組内でも男性陣がしきりにそういった感想を漏らしていた。このような発言は、単にメイクが下手すぎてもともとのすっぴんへのマイナス効果にしかなっていなかったからなのかもしれないし、あるいは、あまりにもすっぴんが強烈過ぎてとりあえずは褒め言葉でお茶を濁すぐらいしか対応できなかった、という可能性だって捨てきれない。だが、言葉通りの正直な感想の場合だって少なくはないはずだ。


しかし、これまた定番の結果ながら、その「すっぴんも、意外とかわいくねぇぇぇぇぇ!?」や「すっぴんでも全然イケんじゃん!!」という言葉があがった影響により、当人のメイクの仕方が薄くなったりすることは、まーないのだ。この件に関しては、どんなに外部から言われようが、かんけーないのだ。


この構図はしかし、前述の醜形恐怖の女性の事例となんら変わりないのではないだろうか。つまり、醜形恐怖をかの女性の周囲の人間が整形なんかしなくてもいいといくら言って聞かせても彼女が手術に踏み切ったのと同じように、どんなに周囲の人間が「そんな厚化粧しなくてもかわゆいのに」と思ったところで、ある種の女の子のメイクの仕方は、おそらく濃くはなろうと薄くはならないのだ。


ここで、前々回書いたブス自認の話だ。ジャック・ラカンが残した有名な言葉の一つに、「すべての人間は神経症者である」というのがある。これはフロイトの注釈と自認する彼の思想において最もラディカルな部分の一つ、人間主体の自我こそが先行するエスから生み出された症状の一種にすぎないということを言い表している。つまりラカン精神分析においては、自我さえも主体にとって偽りの仮面でしかないのだ。


ということは、こうも考えられないだろうか。ブス自認という女性一般が抱いている(と北原みのりが考える)自意識も、やはり一つの「症状」なのだと。


ではそんな女性にとって、化粧とはなんなのだろう。よくメイクというのは、他者と他者の集合体である社会によって評価され、承認されるものなのだと言われる。なるほど、今日は外出しないと決めている日にはすっぴんという人が多いだろうし、他人に見てもらわなければ化粧はしてもたしかに意味がない。がしかし、本当にそうなのだろうか。


そのような他者に対するその人の不安とは、その多くが「他人が自分のことをこんなふうに思っている」ということを眼前と見せつけられた恐怖であるというよりも、「他人がもしこんなふうに自分のことを思っていたらどうしよう」という、あくまで本人の推測に過ぎない。実は社会で当人が遭遇する「他者」なんて、その人が勝手にこしらえた、バーチャルなものでしかないのだ。そんな「推測的な他者」の中で、ブス自認を患う女性にとって、もっとも厳しい審査員となる「他者」とはいったいだれなのか。それこそが、「社会学的な他者」の限界といっていい、精神分析ならではの他者であり、究極的にそれは自分自身なのである。

だから「化粧というのは自分のためにするもの」、という意見は半分当たっていて半分はずれだ。「自らの精神的な安息を手に入れる」という意味においてそれは「自分のため」になるのだけれど、化粧によって欺こうとしているその「他者」とはすなわち、その人本人なのだから。


つまり化粧とは本来外皮にほどこされるものではない。その人固有の自我にほどこされるものなのだ。

*1:この話を聞いたとき、僕は統合失調症における「幻聴」の症状を連想したのだけれど、調べてみると醜形恐怖自体、悪化すると統合失調症的な容態をていしていくものらしい。

*2:調べたところによると、彼女のように美容整形という物理的な変化を求めて病を克服しようとする患者は、少なくないのだけれど、それで完全に克服できる人ばかりではないようだ。