いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

そりゃブスの中にも「階級」があるだろさ

ohnosakikoさんの記事経由で読んだ北原みのりさんの記事。
よしもとばなな話で盛り上がっていた筆者とBさんに、猛然と食ってかかるCさんという図。

「いいですか、Cさん、世の中にブス自認のない女なんて、いなんですよ。それが女の病であるということが前提ではないんですか!?」

http://www.lovepiececlub.com/kitahara/2009/12/post-188.html

まさしくこれが前提になっているのだけれど、このことを共有しているかどうかでこの話はまたちがった様相を呈してくる。これがないままだと、北原さんが単によしもとばななの言動を「ブスのくせに」と非難しているようにしか読めない。Cさんのように憤慨するのも、無理からぬ話である。
しかし、北原さんが相手と共有していると思ってたけれど実はしていなかったのは、「私だって同じブスだ、という意識はある」という前提。これがあるならば、非営利組織ブス自認の会(北原氏にいわせれば女子全てが所属するという)のone of themであるよしもとばななだけが、その集団の中で突き抜けることができている(ように見える)その自意識に驚嘆している会話のように、読める。
「私もブスだしあの人もブスなのになんで彼女だけ!?」というわけだ。


でも翻ってみてこの、世の中にブス自認(言い換えれば、「見られる性」として萎縮してしまう女の自意識の病)のない女なんていないという前提は、たしかなのだろうか?いや、この書き方はおかしい。ブス自認のない女はいないというのは百歩ゆずってそうなのだとしてもしかし、皆が皆でブス自認し合ってるんです、それだけのことなんですで、話は終わってるのだろうか。女と女の関係って、そんなに単純なものなのだろうか?そうではないだろう。現にそこまで単純でないからこそ、筆者、Bさん、Cさんのあいだですでにごちゃごちゃになってしまってるのだから。


実はこのことで他人のことは言えなくて、僕自身つい最近まで「女は男に比べて異性の外見を気にしない」という巷に流布する「都市伝説」を真に受けた上、そこから勝手に演算して「同性にもたぶんそうなんじゃね?」という根拠なき妄想にとりつかれていたのだ。


よく考えたら(よく考えんでも)、んなわけない。
皆思っていても言わないだけなのだ。つい先日、とある忘年会に呼ばれた時に、そういう顔の美醜の話になった際のこと。僕が、
「でも女の子って、他の子と自分の顔を見比べたりしないんでしょ?」
と聞くと、案の定そこにいた女子ほぼ全員に「イヤイヤイヤイヤ!!!比べますよっ!!!」というものすごい勢いのかぶりを振らせるはめになってしまった。少なくとも僕の近くにいる女の子は、僕の目から見てそこまで他の女の子の顔面偏差値を気にしていないかな、というフリをして、実はちゃーんとランクを付けているわけだ。


僕は北原さんの本を一冊(『ブスの開き直り』)読んだことがある。その本でも同じような主張が掲げられていた記憶がある、女は皆「ブス」なのだと。そのときも、どこか欺瞞的なものを感じてしまったのだけれど、結局こういうことなのだ。女子をすべてブス自認のもとに囲ったとしても、ブスとして均質化されないだろう。やっぱりブスの名札を付けた者同士で、やっぱり比べてるんじゃないだろか?


つまり「あたしはブスだ」というブス自認と、あの人はブスだというときの優越心は、両立するのじゃないだろうか。ある人はある人を見て、自分のブス自認という傷跡をそっと優しくなでられたように慰められ、ある人はある人を見てしまったことで、自分のブス自認の刻印をまた深くくっきりと刻んでいく。


猫も杓子もブスブスブスブス言っているなかで、「ガチのブス」は泣きを見ているのだろうか。それとも、実は癒されているのだろうか。