いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

こういう人たちと、僕はお友達にはなれない

ブックメーカー評価は岡田ジャパン最下位
スポーツニッポン - 2009/12/11 7:01
 デンマークブックメーカー、ティップスブレーデット社がW杯1次リーグ突破のオッズを発表しているが、9日時点でE組はオランダが1・5倍で本命とされ、デンマークが2・5倍、カメルーンが5倍で続き、日本は15倍。4チーム中最も突破の可能性が低いと評価されている。
(…)

http://sports.yahoo.co.jp/news/20091211-00000022-spn-socc.html

今さらながらのワールドカップグループリーグのお話。


抽選会が終わって日本はオランダ、カメルーンデンマークと同組。誰もが思う通り率直に言って、予選突破の厳しい組み合わせだと僕も思う。
ヨーロッパ勢は欧州圏以外の大会では力を発揮できないというジンクスがあり、そうなるとこの時点でデンマークが消え、もしやカメルーンとの一騎打ちでの二位争いか、というほのかな期待もできそうであるが、残念ながらホームの大会以外で実績がないという意味では、日本も一緒だ。このままいけば、ダントツの最下位だろう。


こういうとき僕は最近、もっとも「普通の意見」が集うであろうYahooの掲示板を見ているのだけれど、そこを見ていていつも思うのは「こいつらホント、普通のことしか書かねぇな」、ということ。そこにはホントに、日本の三戦全敗という「至極当然の答え」しか羅列されていない。この予選を突破するのが難しいのは、サッカーに少しぐらい明るければ誰もがわかっているはずで、そう書いた人はおそらく「俺/あたしもそう思う」という、同意の意思を示して、そのお仲間になりたいのだろう。


でもだからといって、自国のチームの命運をそう簡単に即断するのは早過ぎやしないだろうかと、僕なんかは思うのだ。別にこれは僕のナショナリズムの発露ではない。考え方の問題である。


「予選敗退」。これは現時点で行き着く、今回の代表についての「至極当然の答え」である。しかし、そんな「至極当然の答え」のままだと、そこで話は終わってしまう。では次はどうするか。次の言葉は、「その至極当然の答えをいかに崩すか」、つまりどのようなアップセットが可能性として残されているのか、ではないだろうか。というよりも、そこにしか建設的な議論は生まれ得ない。


先日のテレ朝で、サッカー解説者らが集ってこのグループについて語り合う特番があった。日本の勝敗予想をする段になって、辛口解説で知られるあのセルジオ越後だけが唯一、「全敗」と答えた。冒頭で述べた通り僕にだってその答えは理解できるし、テレビの前で眺めていたある程度の視聴者の溜飲を下げることにも成功したのだろう、「セルジオよ、よくぞ言ってくれた」と。
けれど、「全敗」と書いたのが彼だけだったのは、なにもサッカー協会などの周囲の関係先に顔色をうかがう他の解説者ら(確かにセルジオ松木以外はわりと若いメンツだった)がその「本音」を書けなかった結果、ではないだろう。むしろ逆に、彼らが書かないでおいてあげたからこそ、セルジオの「全敗」が際立ち、映えたのではないか。いわばセルジオの「全敗」の方こそが、他の解説者の異なる意見に「依存」しているわけだ。


なぜセルジオ以外の誰もが「全敗」と書かなかったか。本当なら日本のグループステージ突破が難しいのなんて、あの場にいた人はだれだってわかっているだろう。

それでも書かなかったのはおそらく、話がそこで終わってしまうからだ。考えてみてほしい、全員一致で「全敗」では、ちゃんちゃん。「テレビ」にならないではないか(その点でセルジオは「テレビ」を「わかっていない」のだけれど、彼のような「わかっていない」人が一人いるだけで「テレビ」が面白くなる、というのもまた事実である)。


テレビというのが「建前」のメディアで、一方インターネットというのが「本音」のメディアだという単純な二元論が許されるとして、では「本音」の飛び交うネットの方が、テレビに優越するメディアなのかと言われれば、僕はそうとは思えない。

優劣ではなく、それは単なる「棲み分け」に過ぎない。ネットで「建前」を垂れたって誰も読んでくれないのと同じように、テレビで「本音」が語られても、「テレビ」にならないのだ。なぜなら、本音というのが公共の場で「言ってはならないこと」であると同時に、「言ってもどうしようもないこと」だからだ。

むしろ予め定まったその「本音」をいかにひた隠しし、いかに議論を先延ばしし、いかに「別解」の可能性を探るか。そちらにこそ面白さがある。そういう点で話は逸れるが僕には、終わった終わったと言われているテレビにまだ、可能性があるように思える。


話を戻すと、今回のような案件について、「至極当然の答え」をネット上に羅列できる人というのは、繰り返しが好きな人なんだと思う。

ポップアートの巨匠、かのアンディ・ウォーホルマリリン・モンローの顔を何枚も並べた絵の人ね)も繰り返しについて、「繰り返せば有名になる」という言葉を残している。彼の作品を眺めればなるほど、その言葉の持つ力を感じずにはいられないこともまた事実だ。


ただ、後にその言葉を受けた写真家の中平卓馬が、こうも書いている。
「繰り返せば有名になるが、バカになるか、保守化する」


「日本国民だからといって代表の予選通過の安易に期待しない」というその態度が多勢を占めるこの日本の情勢について、今のところはナショナリズムがうんぬんかんぬんと、かたいことを言う必要はないのかもしれない。でも、その「体制に順応しない」という身振りそのものが、猛烈な勢いで「個」をのみ込んでいく今の状況は全体主義的であることに変わりなく、保守化の一様態にしか思えないのは僕だけだろうか。


日本のネットカルチャーの議論にならない「本音」に多勢をしめていて、そういう意味ではTwitterが始まる前からそこは他者との議論を寄せ付けない「つぶやき」にあふれていたのだ。


でもそういう人たちと、僕はお友達にはなれない。