先日季節の歯車がまた回り始めただとかなんだとうそぶいて風流や雅の分かる人間を気取っていた者ですが、存外すぐには涼しくならないもんですね(毎年のことか)。だれが考えたんだか「残暑」という巧い言葉がありますが、一度は去った振りしてまだ向こうの木陰でこちらの様子を伺っている少女の眼差しのように、秋口に居残った夏はジトッと僕のうなじに汗をかかせるのです。
さて、夏になれば僕は自動機械のごとく「夏がく〜れば思い出す〜♪」を口ずさんでしまうほどに文部省唱歌に毒されている人間なのだけれど、尾瀬なんて行ったことないので思い出すことなんて不可能なのである。
だからなんだといいますのも、本日は音楽の話でして。
今日の夕方に『爆笑問題のニッポンの教養』坂本龍一の回の再放送をやっていた。坂本龍一といえば、言わずとしれたYMOのメンバーであるとともに、東京藝大を主席で入ったとか出ただとかどっちか忘れたけれど、とにかくダウンタウンに半ば嘲笑的に「教授」と呼ばれる筋合いのない、本当はスゴイ人なのだ。そんな「教授」と爆笑問題の二人のトーク。僕に残ったのは、爆笑問題を通して感じてしまった自分の「場違いな思い」あるいは「気まずさ」のようなもの。それは、他の学者の回も視たことのある僕の感じたことのないもので、やはり「芸術」「アート」に対しては未だ、克服しがたい威光のごときものを感じ取ってしまっていることの証左などという結論もできるかもしれない。
けれど、そうではないと思う。
というのも『ニッポンの教養』には同じ東京藝大出身者、の中でも単なる卒業生なんかではなくそのトップ、学長にまでのぼりつめた宮田亮平が以前この番組には登場したのだけれど、申し訳ないがこの学長の登場した回で、坂本龍一と爆笑の二人のトークセッションで感じたほどの「気まずさ」、「場違いな思い」みたいなものはなかったのだ。他の学者の時もそう。この違いは、いったい何に端を発したものなのだろう。
それは、宮田学長と坂本龍一、その両者が語っている内容の実質的な浅さ/深さの違いなのしれないけれど*1、それ以上に「分野」の問題だと思うのだ。
東京藝大の回(先日あったスペシャルではなく、特に学長の登場した通常版の回)、爆笑問題(というか太田光)はアートの外部に属する人間として(お笑いというクリエーティブな職業人としての共感を多少こめながらも)、あくまで「アートわからん」の立場をとっていた。そしてそれは、大文字の「芸術」やアートに関して言えば、僕ら視聴者も同じ立場からものが言えるということである。
例えば現代アート。デュシャンもアンディ・ウォーホルもようわからん。でもそんな人にも、現代アートについてなされる議論においては「ようわからん」なりのポジションが用意されている。その「ようわからん」というポジションは、やりかた間違えば「ただの無知」になってしまう諸刃の剣ではあるものの、戦略的に使いこなせれば、その分野の専門屋に「王様は裸だ!」を突きつけることができる。
だが、殊に音楽に関して言えばどうだろう。
今や一歩外に出ればMP3プレーヤーが大氾濫している。猫も杓子もイヤホンをつけ街をかっ歩する。そう、音楽ならばプレイヤーならずともリスナーすなわち享受者としてコミットしている人の総量が、他の「アート」に比べて俄然多くなるはずだ。それにMP3を持たなくても、誰にしろ好きな歌手やらバンドの一つや二つはあるだろう*2。その音楽の趣味というのは、人それぞれその深度は違うもののセンシティブなもんなのである。そして、たいていの人は自分の趣味の悪さにどこかしら恥ずかしさを覚えながらも、どうしてもそこから離れられないでいる。
これが爆笑問題とからんだ坂本龍一に僕の感じた「場違いな思い」「気まずさ」の源泉だと思う。音楽という分野に関しては、僕らは「ようわからん」を気取ることができない。なぜならそんなの「嘘」だから。音楽では「ようわからん」という場外乱闘の戦術は無効なのだ。相手がより「高尚」を引っ張り出してくれば、こちらは問答無用で「俗なるもの」になってしまうのだ。
だからこそ音楽に関すれば、他分野で自己の無知をさらけ出されてしまうこと以上に、僕らは音楽好きならずとも、なんとなくそこに気まずさを覚える。
番組は前半、坂本が厳選したという「世界の名曲」を、爆笑問題がありががって拝聴させてもらうパート。そこではもちろん、ビートルズの「Let it be」やマイケル・ジャクソン「スリラー」が流れるわけじゃなし。13世紀の音楽だとかアイヌの音楽だとか、おそらく太田も田中も(もちろん僕も)聴いたことのない音楽のオンパレード。「これをいつも聴いてるんだよ」という教授の言葉に、曖昧に返事と表情をする二人。顔に「これのどこがいいんだ」と書いてある。
そのパートが終わり、問題はその次にあった。今度は、爆笑の二人が持ってきた普段聴いているCDを聴くというのコーナー。
今度、曖昧な表情をするのは坂本の番である。
まず田中の一曲目。子どもの頃初めて好きになり買ったという、べったべたの昭和歌謡(タイトル失念)が、厳粛なスタジオに響き渡る。部屋で視ながら「やめてくれー!!!」と思わず叫んでしまったが、僕が言わなくても教授が無言でプレイを止めてくれた。続いて田中が取り出したのは『グリース』のテーマ、坂本から飛び出したのはか細い声での「ミュージカルはちょっと…」。
直前に聴いた教授の選曲からするとどう考えても場違いにもかかわらず、よくぞのうのうとその曲をかけたなという田中のその図太さへの憧れも少し抱いてしまうところだが、この後も太田光のセレクション、サザンの「Aja」が流れて胃の下の方が痛くなった。なんで視ているだけの僕が気まずくなったり場違いな想いをするかというと、エリック・サティもグールドも部屋のCDラックにない僕は、どう抗おうとこの番組における爆笑問題の側、つまり俗世間の側から番組を視ざるを得ないからだ。
『ニッポンの教養』のこの回、坂本龍一の回はたぶん、視聴者が番組史上初めてその回のゲストと同じ土俵の上に立たされ、爆笑問題を通して「庶民」である自分の本来の立ち位置を気付き、まさに自分の「無教養」に気恥ずかしさを覚える回だったのではないかと推測する。
音楽なら誰とだって共感しあえる、しあえるからこそそれは危険でもあるんだということを、教授が難しげな顔をして語った番組の最後、何かリクエストしろと諭された爆笑問題の二人が少し戸惑いながらも声を合わせて
「戦メリっ!」
と叫んでいたが、印象的だった。