いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

村上春樹的な「やれやれ」

二日ぶりに学校に来て自分のブログを開くと、すごいことになっとる。やったね!ブクマ自己新更新♪……と喜んでもいられないことを、コメント欄とブクマページを開いて気づく(それにしても更新する度にページビューが何十も増えているのは、初体験だが不気味である)。
正直、読んでいてがっかりした。うんざりである。最近わけあって村上春樹の作品を読みあさっているのだがまさにこの状況、村上春樹的な「やれやれ」、である。


ちゃんと読んでもらえれば、冒頭の「伯父の家族エピソード」というのは話の導入部にすぎず、「僕の問い」の本質は後半に集約されることがわかってもらえるはずだ。なのに、書いた本人としてはどうでもいい(もっと言えば無くてもよい)前半のエピソードの枝葉末節をあげつらっての批判が大半ではないか。僕はこの状況に、うんざりする。「木を見て森を見ず」とはまさにこのことではないだろうか。


「読みの多様性」や「創造的な誤読」というのを僕は否定しない。手紙の誤配はさけられないものだ。しかし僕自身が許容できるのは、建設的なそれに限られる。それ以外の、文章内容の本質とは関係のない、どうでもいい箸にも棒にもかからない「批判」は、読んでいて力がぬける。相手にもしたくない。


僕のいとこの彼女への文言がセクハラだぁ!?だからなんだというのだ?そんなこと言われなくてもわかってるよ。
だいたい、なんで赤の他人であるはずの人たちに、僕と僕のいとこの女の子の関係についてとやかく言われなければならないのだろう。あなた方は、いったい僕のいとこの何を知っているのか。彼女がどんな背格好で、どんな服装で、どんな言葉を口癖にしていて、どんなことに腹を立て、どんなバンドが好きで、どんなことを生きる指針としているのか。ここで批判している人たちに、そのどれが語れるのだろう。実のいとこである僕にだってその多くはわからない。だからほっといてくれ、という話なのだ(そういうと、「いや、その閉鎖的な家族のあり方こそが家父長制の『温床』で…」とか「そういうことを書くあなたの人間性の根底に女性への蔑視が隠されていて…」なぞをかます輩がいるかもしれないが、そういうイデオロギーの流布や僕の深層心理の分析は存分にやってくれ。ただし僕の知らないところで)。


だいたいこのエピソード自体が全くのでたらめ、フィクションかもしれないではないか。もしかすると、僕はそんな発言を彼女にしていないかもしれない。もしかすると、連休中に彼女は僕のもとになんて訪れていないかもしれない。
そして突きつめれば、そもそも僕にいとこの女の子(もしくはそれに準ずる続柄の年少の家族)なんて、存在しないかもしれないではないか?


冒頭で記した話はそういった事実性において無根拠。にもかかわらず、どうしてここまで熱くなれる人がいるのか、僕はそれがさっぱりわからない。僕が文章上に召還した「バーチャルいとこ」をめぐって、なぜそこまで熱狂できるのだろう。


あるいは、こういう可能性も考えられる。僕の書いた文章そのものが「不愉快」だから非難した、という可能性だ。もしそうならば、このエピソードが事実かそれとも単なる空想かの問題は度外視され、僕の文章として記した表象内容そのものが問題にされているのだから、それは一見妥当なように思える。
だがしかし、そんな話がとおるならば、例えば女の子を性的に蹂躙することを目的とする「レイプゲーム」という名の表象内容などは、議論の余地なく問答無用で禁止されるべきではないだろうか?


読み手を「不愉快」にしたのだとすればそれは申し訳ないが、それでも僕のブログを開いたのは読み手のあなたであるし、読みたくないなら読まなければいいのだ。そもそも他人のブログに[これはひどい]や「面白くない」や、それに似たような言葉を平気で残していくこと自体、このはてなという共同体では礼節において酷く間違ったことが、疑われることなく是認されているのではないか?いるかいないかも定かではない「僕のいとこ」の存在を尊重し、現にこうして文章を書くという形で存在することが証明されている僕に対する礼儀は、守らなくていいのだろうか…。



現実社会、ネット空間を問わず、ポリティカルコレクト的にまずいこと、「正しくないこと」というのはわんさかある。それはとてつもなく大きな規模で蔓延していることもあれば、ごくごく小さな規模で点在していることもあるだろう。そんな中、僕が細々と運営する場末のブログに記された「正しくないこと」を目ざとく見つけ、わかりきった「説教」を垂れ、袋だたきにして、自尊心を保ち、悦に浸る。それをすることに、何の意味があるのだろう。そしてそれの、何が楽しいのだろう(しかもそれが的外れときたっ!)。
そういう人たちは例えば、バラエティー番組でスイカ割りに使われたスイカのその彼方に散った破片の行方に気をもむPTAや、映画のスクリーンの片隅にほんのちょこっと映っただけのタバコを鬼の首を取ったかのようにあげつらい映画自体を切って捨てる一部やりすぎな嫌煙運動家と、何が違うのだろうか?


そういう意味でこの状況に僕は、村上春樹的な「やれやれ」を思うのだ。


reaction to http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20090720/1248092002.


PS……id:ohnosakikoさん、出版された本はもちろん存じております。ただ「資金繰り」が間に合わずorz近いうち手に入れ、必ず読ませていただきたいと思っています。