いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

魔娑斗について思うこと


格闘家の魔娑斗が今年引退する。先日、ラスト2マッチと宣言した彼のその一つ目が行われた。相手は総合の強豪、川尻達也だった。結論から言えば、川尻は魔娑斗の相手にならなかった。


「今の俺、すっごい強いよ」


中継の中、何度もリフレインされた記者会見中の彼の言葉だけれど、そのことはK-1の総合部門のトップコンテンダーに位置する川尻を完膚無きまでにのしたこの試合でも、示されたことだろう。だからこそ、僕は彼のこの貴重なラスト2試合をこのような客寄せパンダ的マッチメイク(ファンとしては、確かに対川尻に興味がそそられるのはたしか)に「消費」されるのではなく、もっと意味のあるカードにしてほしかった。その「すっごい強さ」が、十全に発揮されないと敵わないような相手とぶつかってほしかった。
スポーツ選手がいつ退くか。それはその人の自由だし、ファンとてそれに干渉する権利は、毛頭無い。だからこそ、彼が決意を持って戦いをあと2回としたのであれば、その二度を貴重に使ってほしかったのだ。はっきりいって今さら川尻とやって、魔娑斗に何の得るところがあっただろう。



2001年に開幕したK-1の中量級部門は、言うまでもなく「魔娑斗の」K-1だった。もちろん格闘技の実力的には申し分ないものの、彼はそれ以上の余剰を持ちすぎると言っていいほど、持っていた。格闘家に似つかわしくないちゃらちゃらした風貌、歯に衣着せぬ発言の数々。彼の存在は、それまでの格闘技にあった暑苦しいイメージを一新し、それまで格闘技会場など足を踏み入れたことすらなかった若い女性(特にGALと呼ばれる属性のそれ)にさえ注目された。今の魔娑斗の地位はK-1MAXなしにはありえないが、それと同じくらい、いやそれ以上に魔娑斗なしには今のk-1MAXはなかったと、いっていい。

というのも、K-1の看板になったことで、魔娑斗は一選手として犠牲にしたことも、少なくないからだ。


ネット界隈では、はっきり言って彼の評判は芳しくない。その理由は主に、彼の試合に関する「判定」や、対戦相手の「弱さ」の問題、つまりK-1によって彼が「優遇されている」ということに集約される。


たしかに、彼の試合の判定には贔屓目に見ても彼の側に過度に肩入れしたジャッジが、少なくとも3,4試合はあった(そのうち1試合は言うまでもなく2003年の決勝で、この「ミスジャッジ」はK-1サイドが公式に謝罪している)。加えてマッチメイクにおいても、1度目にチャンピオンになった以降の彼が対戦した相手には、ロートルのボクサーであったり、キックが本職でない相手だったり、つまり彼にとってあまりにも低リスクな相手ばかりだった。


それらを引っくるめた大会側の彼への「優遇措置」のそのすべてが、後に残る戦績や彼の手にした富や名声とは別の位相において、彼の選手人生にとって、そして格闘技史にとって「損害」であったと、僕は思う。


「魔娑斗が一番」、「魔娑斗が最強」というテレビ局やK-1側の敷いた既定路線のストーリーラインがあって、彼はその線の上を歩かされていた。それは残念ながら疑いようがない。そういったストーリーラインがなければならなかったのは、彼ら「格闘技番組」という生ものをつくる側の「弱さ」に理由があるのだろう。だから僕は、魔娑斗はその犠牲者だと考える。


でも本来、格闘技にしろスポーツ一般において、敗北というのも単なる敗北には終わらないのだ。たとえ負けてしまおうと、ストーリーのそこで終わらない。一昔流行った「リベンジ」と言う言葉が示す通り、そこからまたより味わい深いストーリーが生成されることだってあるのだ。現にK-1をはじめとする格闘技には、「リベンジ」から生まれた名勝負が、いくつもある。だがTBSは、そしてK-1は、MAXの根幹として据えてしまった魔娑斗を、その「生のストーリー」に晒す勇気がなかった。その結果、僕らはいくつものあり得たはずの「夢のカード」を見逃してしまった。あり得たはずの「対立の構図」を見すごすことになってしまった。繰り返しになるけれど、僕はこのことが、ここ十年の格闘技界最大の「損失」だと思っている。もちろん、魔娑斗個人にとっても。

それだけに、唯一残された大晦日に行われる彼の引退興行(おそらく絶対的に、主役が彼にされることは間違いない)では、せめてその「生のストーリー」が紡がれる現場であってほしいと、僕は切に願う。



ところで話は変わるが、今回久々に格闘技をTBSでリアルタイムで中継を見たのだけれど、びっくりした。格闘技中継なのに、試合が「放送されない」のだ。なんだか最近の格闘技中継では本当に良かった試合ほどカットの憂き目にあい、本来は「些末なもの」であるはずのものにどんどん時間を割かれていっている。それはもう、目に見えて。しかもそれが、まるでうまくいかないときている。

TBSと今の自民党(麻生政権)は、そういう意味でよく似ている。なにをやっても、どうあがいても上手くいかない、と言う意味において。それは底なし沼でもがいているようなものだ。どんなにもがこうと、その体は確実に沈みゆく。


両者とも「今全然上手くいってないんですよね〜」ということを自ら言語化すればいいのに、と思う。それで事態が急転することはまずないが、それでもなお「上手くいっていると信じているフリ」をしてその場をやり過ごすより、いかほどかはましなはずなのである。
麻生さんにしろTBSにしろ、さも「何も問題はありませんよ〜」というような体裁は、絶対に崩さない。いや、崩せない。逆に言えば、自分たちが「上手くいっていないこと」を言語化できないところにこそ両組織の限界があるの、かもしれない。