いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「サブカル」がおかしなことになっとる

大学院の授業にて。その日はある女の子の発表だったのだが、そこでその子がマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの受容史のようなものを披露した。発表が終わり、聴いてた院生の側からつっこみを入れる段になって(その授業は各々が発表して相互につっこみつっこまれるのが目的)、さっそく担当教官からの素朴な疑問。

「そもそもマンガって、サブカルでない?」

ごもっとも、である。
その子は少年マンガである『ジョジョ』がサブカルとして読みつがれている、という受容の変遷を発表したのだが、そうなのだ。マンガって、そもそもサブカルなのである。サブカル、サブカルチャーというのはハイカルチャーとの対比で初めて存在が明確になる。ハイカルチャーというのは、有り体に言えば古典的な芸術、教養のジャンル。ピエール・ブルデューのいうところの文化資本になるようなものである。その対義語としてのサブカルチャーはだから、大衆文化といえる。例えばテレビ、ラジオ、ポップミュージック、映画(…はハイかサブかが作品によってわかれるところだが原義的にはサブ)、そしてマンガもだ。そもそもマンガ全体が、サブカルチャーのはずなのだ。


と、すぐさま担当教官側に肩入れするのは僕の小賢しい性格でもあるが、彼女の言わんとしていることも同時に分かってしまうのだから困る。僕らが常日頃使っている「サブカル」の用法からすれば、彼女が発表を通して言わんとしたことも共感できてしまうのだ。


ジョジョ』はマンガジャンルの中でも、やはり「サブカル系」に属すのだ。そして反対に、僕らは『ドラえもん』や『ドラゴンボール』を、もはやサブカルと呼ぶには違和感を覚えてしまう。


このジャンルのダブルスタンダードは、どこに由来するのだろう。
その授業が終わって、横浜市内の紀伊國屋書店に寄った。そこでもまたしても出くわしたのである、「サブカルチャー」と記されたコーナーに。繰り返しになるが、本来ならサブカルチャーはそこら一体のマンガの棚も、映画の棚も、テレビガイドとかが置かれた棚も、みんなみんな、サブカルチャーのはずなのである。しかし、現実にはそうとはなっていないのだ。


ちなみに、そのサブカルチャーの棚にどんな本が並べられているかというと、

ペニスの文化史

ペニスの文化史


とか、それから


クイック・ジャパン74 (Vol.74)

クイック・ジャパン74 (Vol.74)


こういうのもある。
あと、みうらじゅんいとうせいこう伊集院光の本があった。さらに他の本屋なら、単なるタレントのブログ本だって雑多にこの「サブカルチャー」の棚に置かれていたことがある。それらがみんな、若者言葉のいうところの「サブカル」に属するのだ。しかし、見ればあったり前に分かることだが、それらに共通点は何ら見あたらない。一見、なんでもかんでもがごった煮にされているにすぎないのだ。これはジャンルというか、「その他」ではないか。


だがしかし、これらの商品を「消費する人」のシルエットを思い浮かべれば、それは途端に統一的な“ある属性”を思い浮かべられないだろうか。


そう、何を隠そうそれは、「文化系男子」なのだ。ここでいう文化がイコールサブカルチャーということになるのだろう。文化系=サブカル系男子が好むのは、まさに上に挙げたような女子に引かれない程度の「プチエログロナンセンス風味」のぴりっと漂う、「僕はちょっと違うんだぜ的センスを誇示できる」ものの数々なのである(ここは、ともすれば「記号としての消費」とか、80年代臭のキツい言葉が脳裏をよぎるが)。

僕が言いたいのはこういうことだ。若者言葉でいうところの「サブカル」とは、もはや原義的なサブカルチャーとは、部分的には相関しながらも、確実にずれてきている。そして「ハイカルチャーではない」という条件だけではもはや、それらは「サブカル」として認めてもらえないのだ。サブカル系男子が好き好んで愛用しているものこそが、サブカル系というジャンルを形成しているわけだ。つまり、若者言葉「サブカル」とはこの、「文化系=サブカル系男子が好むもの」という消費者主体によって決められていく、きわめて流動的なカテゴライズなのである。ここには、「記号としての商品による消費者の自己決定」という80年代消費社会論の、不思議な転倒がある。


例えば、サブカル系男子の殿堂と言えば、かの「ヴィレッジヴァンガード」だ。「サブカル系」と認知されるマンガ、音楽、小説等は、個々のジャンル内の「サブカルチャー」のカテゴリーに属しているからそう呼ばれるのではない。言ってしまえばそれらは、「ヴィレッジヴァンガード」に陳列されているから、さらに言えば「サブカル系男子に消費される」から「サブカル系」になるのだ。

だから不思議なことが起こる。
のだめカンタービレ』や『ハチミツとクローバー』。どちらも人気マンガで、特にサブカル系男子女子に好きこのまれる作品だ。その人気から派生したクラッシック音楽、あるいは現代アートを消費する行動だって、彼ら消費主体の内面ではクラッシック、あるいは現代アートというハイカルチャーを消費している意識はなく、彼ら自身はいたってそれらを「サブカル」として消費している感覚である可能性もある。「サブカルのカリスマ」と、僕が勝手に命名したクドカン(もはや過去の人、なのだろうか?)が「落語」をドラマに取り入れたら、落語だってサブカルとして消費されてしまうのだ。