いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

繊細な先輩

こないだ学食で、同じ研究室所属の後輩四人が飯食っているところを遠巻きに目撃したのだけれど、その輪の中に入ろうか入るまいか迷ったあげく、結局最初っから知らなかったフリをしてそこを後にした。


今年で、この大学のキャンパスで過ごす夏は六回になる。6年生にもなると、本人がどう思おうと、周囲からは多少でも敬われてしまう。
なんつーか、僕が輪に入っただけで場が変わってしまうのがわかるわけだ。
その彼らは学部の3年生だから、現役だと仮定すると年齢、学年で3年違う。3年というのは、社会に出てしまえばそれはそれでちっぽけな差なのかもしれないが、幸か不幸か僕の後輩君たちは、その辺の礼儀ができているほうなため(政治が巧いと言うべきか?)、そんな「ちっぽけな差」であろうと、大切にしてくれる。変な話、確実に場が「あらたまってしまう」のだ。


僕にとっては、それはそれで困ってしまうのだ。これはまるっきり「シュレーディンガーの猫」だ。彼らの話題に興味を持ち(これが毎度、僕の興味ある話題なのだ)、それにコミットしようとすれば、不可避的に彼らの話題そのものが変わってしまう。「先輩」がいるということで、もっとインテリジェンスでクリエイティブでブリリアントな話題について、討議しなければならないと、彼らがかまえられてしまうわけだ。結果、僕はその話題に「参加」できないのだ。
もちろんそのことで彼らは僕には何も言わない。いやいや、もしかすると本人たちも気づかないうちにあらたまってしまっているのかもしれないが、その「背伸びぐあい」を、見せられるこちらがいたたまれなくなる。


「もっとフランクにしてくれていいのに...」


一方で、こういう些細な問題に、生来気づかないもまま死にゆくような「先輩」の人種もいるのである。体育会系はそうで、見ていると彼らは自分が場に現れるたびに、ぺこぺこお辞儀する後輩の礼の角度を確認するのが、一種のライフワークでさえあるかのようだ。彼らには、精神的にはショパンを弾きながら吐血する早熟の天才ピアニストのような繊細さを自負する僕の悩みなど、不可視にひとしいのだろう。


だから、先日の京都教育大の一件は、僕とはまるで次元のかけ離れた世界のできごとだと思った。


だって考えてみてほしい。集団でやるなら、どういう順番で回すかで、後輩たちが僕が先にするよう気を使うはずだ。
そんなことも気にならずに、おそらくあの場では先輩が後輩を差し置いて回していたのだろう。


だから、あんな他人に対して鈍感なこと、僕には絶対にできない。


HAHAHA
…笑っているのは僕だけか?