いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

好きなものについて語ること


この件について先日ご指摘をいただいたある方に、僕がフーコーを引き合いに出したことに対して、彼が同性愛者だったという事実も考慮に入れるべきではないか、というご指摘をいただいた。もちろん僕はフーコーが同性愛者であったことを知っているし、そのことは十二分に考慮に入れるべきであると考えている。
しかしここで指摘したいのは、言説を説いたフーコーの批評活動が、単純に同性愛者などのセクシャルマイノリティという抑圧された同胞の「解放」を目的にしていたというわけでもない、ということだ。僕がいちいち感服してしまう彼の天才性とはおそらく、常にものごとを一つ上の次元から考えることだ。彼の問題意識の射程は「同性愛者をいかに解放するか」では必ずしもない。そうではなく、彼の問題意識はいわば「なぜ人(異性愛者、同性愛者関わりなく)は、自分あるいは他人の性について真実を語るべきと考え、同時にそれが社会的な抑圧からの解放になると思い込むのか」だったのである。


例えば僕は左利きだ。しかしそのことで、珍しがられたことはあるものの、イジメにあったことはない。
例えば僕は広島出身なのにお好み焼きが大嫌いで給食で出されたそれを、毎回食べきることができなかった。しかし、そのことで同級生からいびられた経験はない。
ところが、ここに入る項目が「同性愛者」だったとしたら。こうはいかないだろうということは、僕にだってわかる。


おまえはバカか、それは性の問題だからだろう、と言う反論があるかもしれないが、彼が問題にしたかったのはおそらくそこ。なぜ「性の問題だから」と特権的に性は問題として立ち上がるのか。そのことは実は、自明ではない。「性の問題だから重要」、実はそこにこそ何かの権力性が働いているのではないか、と彼は考えたのだ。現代においてセクシュアリティを研究している人は、まず間違いなくフーコーの文献に当たっている。しかしフーコーの文献を当たっておきながら、なぜ彼らはその後になっても「セクシュアリティの言説」をより豊かしようとするのか、実はあまり語られない。


同性愛者が迫害されているとしたらそれは、彼らが単にマイノリティだからではない。それが性の問題が特権視されているという、いわば知の権力が働いているからだ*1


奇しくも今、ガスヴァンサント監督の最新作、ショーン・ペン主演の『ミルク』という映画が公開されている。ミルクは実在した人物で、同性愛者を解放しようとした人だ。彼の場合は政治家であり、具体的なゲイの生活という今そこにある問題に直面していたがために、とりあえずはゲイの法的、社会的な「解放」が目的となったのだろう。特に彼の生きたアメリカの一部の地域、厳格なキリスト教圏では、同性愛者はそれこそ命の危険があるほど迫害されていた(いる?)と聞く(そして事実、彼は市政執行委員当選から数年後に殺害された)。


でもホント言えば、日常生活でホモとかヘテロとかがまるで気にされないというのが、だれにとっても一番いいはずだ。そしてそのことは、性の問題であるがゆえにLGBTではない人だって、僕らにだって向けられる。自分がロリコンであるとか、シスコンであるとか、ショタコンであるとか、競泳水着フェチであるとか、メガネフェチであるとか、それらはその人固有の性的指向であるのだけれど、おそらくそれらは自分で決めたものではないだろう。いつの間にか、そうなっていたものだ。そんな偶然的に決まったアイデンティティを、性だからといって自己の中核に据えるよりも、もっと大事なことだってあるのではないか。


このことを突きつめていけば、「性については口を慎め」という素朴な近代主義者になってしまうのだが、外見だけみればそれとあまりかわらないだろう。しかし「セクシュアリティの言説」を増殖させていくことではたして、セクシュアリティについていつか何かが解明されるのか、それとも単に人間の物の考え方を統制する言説が増えていくだけなのか。どちらかといえば、僕には後者にしかならない気がする。そんなのマジョリティだから言えるのだろと、言われればそれまでだ。しかしかといって、僕はマジョリティだと表明したことは一度もないし、こういうことをいうやつはマジョリティだというのも一種の偏見だと思うのだが。


さらにこれは、性的指向だけではなく単なる趣向だって、そうではないか。
「私」の好きなもので「私」を表現するのは、その人の自由だ。
しかしその一方で、「私」は好きなものをなんで好きなったのか、「私」自身でさえその理由がわからないのもまた事実ではないか。それは論理を越えたところにある(恋人の「俺/あたしのどこが好き?」って問いが字義どおりの答えを求めている質問でなく、それを相手に語りかけることそのものに愛の作用を含んでいることは、詳しく言わなくてもわかるよな?)。批評や作品論というのは、ある意味その好きな理由の探求になるのだけど、どんなにうまくいったとしても、どんなにその人自身の好きな気持ちに接近したとしても、それは仮説に過ぎない。


だから、「私」の好きなものっていうのは、ある意味ではみじかなものではあるのだけど同時に、自分にとって自分のもっとも不可解な部分、もっとも自分の「自由の効かない」部分でもあるはずだ。何を好きになれるかなんて、わからないんだもの。そんなものを表現することが、はたして「私の自由になる」のかって考えると、僕はそうは思えない。


もちろんこれは僕の言い分であって、それでも好きなものを好きと表明することがアイデンティティにつながると考える人、またその「好きなもの」を通して誰か他の人とつながりを持ちたい、という人の権利を奪うことはできない。


僕自身はでも、「好きなもの」をそんな素直には表明できない。例えば、はてなに限らずネット上のプロフィールページに自分の「好きなもの」を何から何まで羅列している人がいる。別にそれがよくないということではなく、端的に僕はそんなことできないのだ。最低限どんな人なのかという素性がわかるぐらいのことは書いているが、「好きなもの」についてはほとんど割いていない。それは、何か好きなものについて語る後ろめたさというか、語るということはおそらくいつかうちなる説明しようのない衝動に突き当たってしまうからで、そのことは僕自身にだって土台説明しようがないのだ。


だから、今回あのような発作的、挑発的と思われかねない文章を書いたことは、そういう「好きなもの」を素直に表明できる人たちに対する、嫉妬心や劣等感のあらわれだと指摘されれば、それは否定しようないことなのである、というのは最後に書いておく。


(追記1)一部で僕が性的なものを大事にするな、語るなと言っていると、間違った解釈をしている人がいるが、僕は大事にするなとはいっていない。性的なことについてはなぜか特権的な地位を与えられていて、だからこそそれは相対化できるのではないか?ということだ。語るなとも言っていない。この文章の「『好きなもの』をそんな素直には表明できない」というのは、僕個人の実感であって、だからといって誰にも強要はしていない。「抑圧」を感じるのは読み手の勝手だが、そんなことをいったら何を書いたって誰かが不可避的に抑圧を感じる可能性がある。ここで抑圧を感じるのはあなた個人の問題だろう。

(追記2)id:NICAさんご指摘ありがとうございます!

*1:(補足)網羅的に事実、言説を集めまくる人間の営みを彼は「知=権力」であると考えた。ここでいう権力とは、君主や王様など、旧来使用する側の権力「者」と対になっているような類のそれとはちがう。権力者がいなくとも、「知=権力」は駆動する。それはいわば、特権的な操縦手不在でも動く巨大な機械だ(このことについてはここでもちょびっと書いた)