いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

経済成長という病

電通が11日発表した2009年3月期連結決算は、広告費の落ち込みなどを受け、税引き後利益が204億円の赤字(前期は362億円の黒字)となった。

 単体決算を含めても1901、02年度の創業期以来の赤字決算となった。

 昨秋のリーマン・ブラザーズの破綻の影響などで、電通単体で「金融・保険」企業による広告費が前期比19・2%減、「自動車・関連品」が16・3%減の大幅減となったことが響いた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090511-00000864-yom-bus_all

昨年以降の世界的不況が、なにやら「100年に一度の不況」と叫ばれていて、いったい何をもとにその年数を案出したのか、ボクシングの大橋秀行をたたえて「150年に1人の天才」と評されたのと同じくらい空虚なうたい文句ではないかと思っていたのだが、奇しくも今回このような形で事態が約100年ぶりであることに気づかされる。経済のシステムがまるで違うだろうから簡単には比較できないが、あの天下の電通が約110年ぶりの赤字である。


経済成長という病 (講談社現代新書)

経済成長という病 (講談社現代新書)


人間は成長し、やがては老いていく。若いころは剛速球でならした華やかなエースも、年をとればその球速にも陰りが見え、やがては球速よりもコースをつく老獪なピッチングを習得せざるをえなくなる。人間の成長に絶対はない。やがては老いるのだ。しかし、ことに経済に関していえば、それらが「やがては老いる」僕らの営みであるはずなのに―いや、僕らが老いさらばえ死滅してもひとりでに勝手に続くものだからこそ―永久不変に膨張し続けるかのように思い込まれている節がある。その経済成長の「病」なるものを、本書は考える。


平川は金と金によってもたらされる経済成長を擬制(フィクション)と呼ぶ。それは思い込み、といってもいいだろう。しかし、だからといってそれらを頭ごなしに否定も、彼はしない。現実に社会を駆動させるのには、その現実からのはみ出した部分ともいえるそれら擬制(それはえてしてイデオロギーという形がとられる)が、ときには必要になる。その擬制という名の思い込みがまったくなければ、社会も、それを動かす人も動けなくなる。そのことを平川は指摘しながらも、次のように言う。

だが、同時にお金が行使できるパワーはきわめて限定的なものであり、それを万能だと思うことで得ることと失うことを、少し長い時間の中で比較考量してみる必要があるだろう。擬制は、自らそれが擬制である事を知り、もっと控えめであるべきなのだ。


43p

先にも書いたとおり擬制は、絶対的な悪ではない。しかしそれはあくまでフィクションであって、ずっと続くという保証はないということを、幻想に内在する僕らは常に留保していなければならない。擬制は、時にその内部に属する僕らに全能“感”を与えてはくれるが、それ自体の永久不変性、全能性を担保しくれることにはならないのだ。そして、僕らにさまざまな恩恵を授けてくれる擬制が、唯一授けてくれないもの。それは「擬制それ自体の限界」、そして擬制が自壊しつつある、という事実である。


全編を読むと、タイトルで想像できる内容を超えて、本書が現代社会のいろいろな事象に光を当てていることがわかる。そのことの脈略のなさをわびながらも、平川は次のことを指摘する。

端的に言って、そのつながりの端緒とは、ごく身近なところに存在しているが見落としているものである。それは、私たちが作り出してきたこの世界のシステムに、私たち自身が絡めとられ、窒息している姿そのうちにうちに潜んでいる。それが何であるのかを性急に名指すのはやめよう。貧困とか、差別とか、あるいは社会制度のひずみといった言葉で名指せば、その瞬間につながりそのものが、それを掴みかけていた掌からこぼれ落ちてしまうからである。


236−237p


ここまで自己の言及範囲とその言及そのものがもたらす影響について、これほどまでに慎重に考える知性を、僕は知らない。

……

奇しくもこの本を買った日、僕は上記電通のような大企業に勤めている同窓生を交えての飲み会を開いた。年間で一人あたりうん十億を売り上げることが至上命令だという、外資系のまさに大々企業だ。ご多分に漏れず、その企業にも経済危機の波は押し寄せているらしい。しかしそれで人の考え方、中身がかわったのかというと、その同窓生によるとそうでもないらしい。
相も変わらず社員は寝る間を惜しんで働きまくり、業績をあげることだけに腐心する。それができる人間はその業績によって自尊心を保ち威張りちらし、できないやつは馬鹿にされつまびかれていく。変わったのは、そのつまびかれていく人数が増えた、ということぐらいなのだそうだ。だがそれは、以前と同じ「優生劣敗」のルールである以上何も変わらない。変わったのは、生き残りの「厳しさ」の、いわばレベル設定だけなのだ。


そんなに心を殺して働かせて、何が得られるのだろう。
そんなに人を出し抜きバカにさせて、何が得られるのだろう。

その企業はこの不況で、失うものはあっても、何も学ひ得てはいないのかもしれない。


不況のあおりを受けて会社が、経済が生存競争を「より厳しくする」というのは、社会システムの中のほんの一部分の「帳尻あわせ」に過ぎない。それが成功したところで得られるのは、失ってしまった「得るはずだったもの」だけなのだから。現状は、そういった帳尻あわせでは持たなくなっていることをさし示している。今求められているのはそのような「帳尻あわせ」などではなく、その会社だけでも、経済だけのことではなく、もっと大きな何かの「ひっくり返し」、短期的には損にさえ見えるかもしれない、根本的な考え方の変化なのではないだろうか。

そして僕らは、その「ひっくり返し」がいったいどういうことなのか、具体的には何をすればいいのか、それをまだ知らない。