いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

偏見のない世の中などない(つくれない)


こちらの記事を読んだ上での、こちらの主張。

まとめ(になってない)
人権団体の人たちは、「ポルノグラフィーによって直接的に性犯罪の頻度が上がる」ことを心配しているというよりも、「ポルノグラフィーによって女性への偏見(女性を性的なモノとしてとらえる)が再生産され、女性への暴力が軽く見られる社会情勢がつくられる」ことのほうを心配している(んだと私は考える)


http://d.hatena.ne.jp/yuuboku/20090508/1241809239

yuubokuさんは心許なげに主張されているが、おそらく上記の団体の主張とそうはちがってないだろう。

平たく言うと、女性への偏見→女性を性的なモノとして扱う描写→女性への偏見→……というデススパイラルが懸念の対象である。この悪循環のプロセスで、女性に対する性的暴力が軽んじられたり、ないことにされたりするのが恐ろしいのだ。


同上


たしかに「女性に対する性的暴力が軽んじられたり、ないことにされたりする」ことは恐ろしい。それはあってはならず、抑止されるべきだ。
さて、上記のEquality Nowなる団体の声明は、それを抑止するためにポルノゲームの販売自体の禁止の呼びかけている。しかし、問題が実体的な性犯罪の実態や数ではなく、「女性への偏見」といういわく言い難い空気のようなものに移った時点で、ことの実態は複雑化し、だれもが納得できるような解決を見つけることは困難になっているような気がする。

女性にまつわるものに限らず、僕らの社会は偏見に満ちあふれている。有り体に言えばそれは、何かに対する「思い込み」だ。「全ての○○は××だ」という思い込み、それは「××ではない○○」を結果的に傷つける暴力になりうる。しかしこう言っては何だが、僕には偏見のない世の中を想像しづらい。偏見がないということは、つまり初対面の事象に対して「過去の経験値から得られるデータ」がない、ということだ。例えば、全ての初対面の人に対して、僕らは何も知らずに相対しなければならなくなる。「髪が長くて、化粧をしていて、スカートをはいている人」を女性と断定するのは、一種の偏見だが、それすらも無くしてしまうとすれば、僕にはちと生きづらいし、そんな世界を僕は想像できない。


そんなの屁理屈だって?たしかに。「女性への偏見」でも、存在して「よいもの」と「いけないもの」がある。おそらくここで問題となっているのは、概して悪いものについてだ。しかし、それでも問題は残ると、僕は考える。


上記のエントリーには続編が書かれていて、そこでは挙証責任の問題が扱われている。(もちろん反規制論者も居直ってはならないが、)ここで証拠を挙げるべきなのはもちろんポルノゲームを「規制しようとする側」だ。そして彼ら/彼女らが規制するには、(1)実際に存在する「女性への偏見」にどんなものがあるかそれをすべてリストアップして、(2)それらと「女性を性的なモノとして扱う描写」との相関関係を考察することが必要だと思うのだが、この(1)と(2)はどちらとも難しい。


まず(1)について。
僕は、「女性への偏見」をリストアップすることは不可能であるし、それをやってはならないと考える。「女性への偏見」でここで問題になっている存在しては「いけないもの」とは、言い換えれば「女性への悪しき偏見」ということになるだろう。それをリストアップすることが、どうして難しいのか。それは、この場合の「女性への悪しき偏見」が、セクシュアリティ=性的趣向を密接した問題だからだ。


例えば「人間が食べると死ぬキノコ」のリストは、作ろうと思えば作れる。しかし、「男/女はこれで興奮する(萌える)」という性的趣向のリストは、原理的に作れない。なぜなら、性的趣向がそのように包括的に語ることと基本的に相容れない性質のものだからだ。それは「これはエロい」「あれはエロくない」というふうに指差すことでしか語りえない。
リストアップするということは包括するということであり、それに「指差す」と関連するような表現をつけるならば「この手につかむ」ことである。しかし性的趣向においては、それを包括的に把握したその途端、そのリストには「載っていない何ものか」が指と指の間からすり抜けていくのだ。要するに「これらがエロい 」というリストにはないものが、常に「エロいもの」として新しく生成される。そして困ったことに、人という歪な動物は、「エロい」という合意がなされていないものにほど、倒錯的にエロティシズムと感じるものなのである。それは例えば「メイド服」という本来はなんら性的ではない職業が、ひとたび性的な視線を浴びると、とたんに性的対象に様変わりすることでも説明できるだろう。


これは当然「女性への悪しき偏見」にも当てはまる。「女性への悪しき偏見」というリストを作ってしまった途端、そこにはない要素がまたこぼれ落ちていく。そのリストの完成は不可能なのだ。


だからこれはつくることも不毛であるし、そしてつくってはならないとも思う。これは最近書いた言説の話とも被るのだが、「女性への悪しき偏見」というものをリストアップすれば、リストアップした側がそれに対していくら反対的な立場をとろうと、その行動は「女性への悪しき偏見」という言説体系を「豊かにしてしまう」ことにしか向かわないからだ。ことに問題が性であるため、それが禁止されればされるほど、より性的に「甘美なもの」として受け取られかねないということは、先の論を待たない。法律で明文化し「非合法」にするなんて、もってのほかだ。


続いて(2)についての疑問というか、留意点。
この世には、「女性を性的なモノとして扱う描写」と「そうでない描写」がある。では、「女性への偏見」の社会への蔓延を助長するのは、はたして前者だけなのだろうか。僕はそうは考えない。

ヘイズコード(1930年代から40年代にアメリカで実際に存在した映画製作倫理規定)なるものについて語った、ジジェクの言葉を引こう。

この根本的な禁止は本質的にひねくれている。なぜならこの禁止は不可避的に、再帰的などんでん返しを起こさずにはいられず、そのおかげで、禁止されている性的内容に対する防御それ自体が過剰な性化を引きおこし、それがすべてに浸透してしまう。検閲の役割は見かけよりもはるかに両義的なのだ。


スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』147p

僕たちは、直接的にはそれではない別の表現によってそれを指し示す、「隠喩」という技法を知っている。その隠喩によって、僕らは表層のレベルではなんら性的でない表現に―むしろ性的でない表現だからこそ―そこに過剰に性的な意味合いを込めることができるのだ。だから身も蓋もない話だが、何が「女性への悪しき偏見」を助長するかなんて、誰にも決められない。おそらくありふれた男女の日常的な光景の中にだって、「女性への偏見」を読み取る人がいるという可能性は、実は否定できないのだから。


さらにいえば男性それぞれが女性のどこにどんな偏見を持ち、女性のどこに性的に興奮するかは、人それぞれである。皮肉なことに、「女性への悪しき偏見」について調べるのであれば、数というもので並列化されるレイプ被害などの性犯罪の実数を分析した方が、はるかにわかりやすい。



心情的には、実は僕はどちらの味方ではない。女性を陵辱する類の、いわゆるポルノゲームを僕自身は愛好してはいないが、愛好するやつがいても「へぇ」としか思わない。腹も立たない。知り合いの知り合いぐらいには、実際にレイプをされたという人もいるらしいのだが、通俗的な言い方をすれば、それと「フィクションは別腹」である。「それはおまえが男だからだろ!」といわれればそれまでだが、腹が立たないんだから仕方がない。


だから僕は、それらを法的に禁止にするのは変だと思う。それを「心情的に許せない」のと、それを「法的に規制する」との間には千里の径庭がある。


心情的に許せないという人の取り得る態度で、現時点で一番有効だと思うのはこの人の態度だ。
http://d.hatena.ne.jp/cmasak/20090510/1241885465
ムカつくということを表明するのはなんらかまわない。
とにかくムカつけ。ムカついていれば少しは何かがかわる、かもしれない。