いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

守備は構築ではなく破壊である、とオシムが言った

昨日のやべっちFCのなべっちFCのコーナーに田中マルクス闘莉王が出ていて、例のあの○×のクエスチョンに答えていた。その第一問。

「ディフェンスは楽しいですか?」

何か質問をつくった作家かスタッフの狙いが見え見えすぎて萎える。これは、闘莉王ディフェンダーにもかかわらず×と答えるだろうということが前提の、要するにべったべたのフリとしての質問だ。そして闘莉王はもちろん×と回答。そして、僕がはた、となったのは彼の次の言葉である。

(ディフェンスするのではなく)攻めている意識だから

はた、と僕が思わされたのは、何も闘莉王の回答に意外性があったからとか、そんなことではない。積極的な攻撃参加が売りの彼だ。それぐらいの意識はあるのだろう。そうではなくて、僕が数日前に読んだ、「ある人物」のインタビューの謎が、奇しくも闘莉王の言葉がきっかけになって氷解したのである。
その人物とは、あのイビチャ・オシム。彼がNumberで今期のチャンピオンズリーグベスト8について語っていた記事に、次のようなセンテンスがあった。

今日の戦術のトレンドは、構築ではなくて破壊だ。誰もがまず守りを考え、攻撃はその次だ。監督には大きなプレッシャーがかかる。試合に負ければ、彼は監督ではいられなくなる。そこで多くの監督は、負けは避けるべきだとネガティブに考える。そのとき彼は、すでに構築よりも破壊を志向している。


「OSIM RESSON」Number728

話しているのは、単純な二項対立の話のはずなのに読んでいて頭に入ってこない。こういう場合は、僕の先入観が読解の足を引っ張っているということが往々にしてある。

破壊とはディフェンダーの態度だ。


同上

これである。つまり僕の脳内では、「ディフェンス=(守備の)構築」であり「オフェンス=破壊」なのだという二項対立が先入観としてあった、ということだ。しかしオシムに言わせれば、少なくともサッカーにおいてそれは、全くの逆。ディフェンスこそが破壊なのだ。


では、なぜ僕の中で、上記の「ディフェンス=(守備の)構築」と「オフェンス=破壊」という先入観が生まれたのだろう。それは、おそらくではあるがサッカーやバスケといったフィールドスポーツを、僕がまるで戦国武将が演じる陣取り合戦のごとく見ていた、ということに根本的原因がある。
固く厳重な矢倉を構築し、相手方から攻めてくる軍勢(オフェンス)という破壊者たちを迎え撃つ。そういうイメージがフィールドスポーツにはつきまとう。それはつまり、まず構築「守りの陣形」があり、その次になって初めて破壊=攻撃があるということ。守備を基盤にして、初めて攻撃が始まるという先入観だ。


しかし、発展に発展を重ねた現代サッカーの実情はそうではないらしい。高度の組織化された現代サッカーでは、そもそも攻撃のシステムが最初から構築され、守備というのはそのシステムを狂わせる、つまり「破壊」させることであり、「その次にくるもの」なのだ。組織的な攻撃(=システム)は、もはや初期設定として当然あるものなのである。
彼の言う「攻撃はその次だ」というのは、先の闘莉王の発言と照らし合わせればわかりやすい。守備という相手方のシステムの「破壊」によってボールを奪った組織は、即座にまた攻撃のシステムとして「再起動」する。防御の中にすでに常にアタッキングシステムは潜在しているのである。

試合はそのシステムとシステムとの精密度を賭けた争いなのである。脆弱な守備が割られ失点したとき守備陣を批判する解説者がよく「ボールを追って、人を追っていない」という批判をするが、あれはそういう意味でより深く納得できる。守備陣におって破壊すべきは、攻撃システムとして稼働する人の構造そのものなのだから。
インタビューに戻る。

私はクリンスマンがメッシに何をするのか、じっくり見てみたい。
(・・・)
いずれにせよそれは破壊行為だ。ファンは素晴らしいサッカーを見にスタジアムに来る。そしてメッシこそは、現在世界最高峰の選手であり、素晴らしいサッカーの実践者だ。彼のプレーが悪ければ、チケット代が無駄になる。ファンの心情を考えれば、それは正しいこととはいえない。


同上

メッシが「現在世界最高峰の選手であ」るということに異論を挟む人はあまりいないだろう。そして彼を擁するバルセロナが、現在世界最高峰の上質なアタッキングシステムを装備しているということにも。
ここでいう「破壊」には、あるダブルミーニングが込められている。構築と構築、攻撃システムと攻撃システムの共演は、観客を魅了する素晴らしい試合を生み出す。その反対に、片方が自軍のシステムの構築を捨て、相手軍ののシステムの破壊に勤しんでいるような試合は、観客を失望させる。それは勝ち負けの次元とはまた別の、ファンの観戦を台無しにするという意味においても破壊行為なのだ。バルサに相対するバイエルンミュンヘンははたして、そのシステムを破壊し魅力を削がせる方針をもって戦うのか、それともシステムに対してシステムでがっぷり四つに組み合うのか(結果はすでに出ている。バイエルンの指揮官クリンスマンに後者の指揮を執る勇気はなかった)。


システムを捨てて破壊をしにかかるとき、チームは一緒に美学をも捨てているのである。