いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

きれい事を言うな!というきれい事

社会をつくる自由―反コミュニティのデモクラシー (ちくま新書)

社会をつくる自由―反コミュニティのデモクラシー (ちくま新書)

テクノロジーが繁栄し、全てが全自動で行われる未来都市。その分厚い壁の外には、飢えた貧民たちが横たわる。このような、通俗的SF小説が描くようなディストピアとしてのイメージが、日本における「ゲーティッドコミュニティ」という言葉、そしてその語の使用にはある。本書の筆者はそれ自体必ずしも称揚しないが、まずそのような「ゲーティッドコミュニティに向けられた批判的な眼差し」に対して疑義を唱える。お前らだって、住民しか入れないマンションに住んでいるだろと(たしかに!)。加えて、「コミュニティ」や「仲良し」「交流」といったもので社会がよくなるとも思わない、ともいう。同調圧力という内圧(つまりKY)によっても、コミュニティの成員の自由は疎外されるのだ。


そんな筆者が打ち立てるのは代議制デモクラシーに代わる、その地域住民が直接的に参加する「集合住宅型デモクラシー」。それはまかり間違っても、いわゆる「まちづくり」などの標語に代表される、箱物建設の際に「アリバイ」として使われる類のそれではない。そこに住む住人が、そのエリアでのプラクティカルな諸問題に対して、自ら政策を立ち上げ、自らそれを実行に移す。理事会というとりまとめる機関は存在するものの、権限の大半はあくまで全住民の集う総会に委ねられる。筆者はその「集合住宅型デモクラシー」でこそ、本書タイトル「社会をつくる自由」がかなう、というのだ。
しかしどうもこれは現実的でないような気がする。 限られた地域、限られた人数における合意のとりつけが目的のため、議論が錯綜するということはないのかもしれないが、世の中にはいろんな人がいる、ということをこの人は忘れている。
例えば、その近隣住民の中にイニシャルがYだとかSで始まる「団体」に所属されている方々がいたらどうするんだ。本書では正義を論じる章で、ハンナ・アーレントアイヒマンを擁護した件を引き、銃を突きつけられたらだれだって正義をねじ曲げるものなのだから、無鉄砲な正義を振りかざすのはきれい事でしかないと力説するが、全く同じことだ。イニシャルがYやらKで始まるところに所属されている方にちょっとすごまれでもしたら、そりゃ相手の意見が間違っていると思っても黙認するでしょう。


そんなのレアケースだろ、といわれるかもしれない。ではもっと現実的な例を挙げよう。
世の中には「学歴」という、特に日本人の心に深く根ざしている概念がある。「学歴という呪縛」から、僕らは原理的に逃れることができない(このことはまたいつか書いてみたい)。普段なら、単なる「お隣さん」がどんな学歴だろうが関係ないかもしれない。だがもし、何か共通の目標に向かって、面と向かって議論することになったとしたら、そこではきっと学歴コンプレックスがあぶり出されていくだろう。
しかし僕はそこで、例えば住人の中に東大卒がいたら、その人に主導権を握られ、デモクラシーが独裁体制になるとか、そういうレベルの話をしているわけではない。もちろんそのような自治体も中には出てくるかもしれないが、問題はそれだけではない。例えば慶応のSFC卒のやつに、プレゼンで圧倒され、意見を承認したとしよう(これは完全に偏見だな(笑))。僕らははたして、その人のプレゼンを「内容がよかったから」承認したと素直に思えるのか。「やはり慶応ボーイだから故に圧倒された(から承認した)」と、卑屈になっていくこともあり得るのではないか。僕は、住民たちが高学歴のエリート住民たちによって支配される、ということではなく、住民たちの間に高学歴のエリート住民たちに支配されている、というが偏見が生まれることが問題だと思うのだ。結果的に、いくら民主主義的に自治体が運営されていたとしても、そこにいる高学歴でない住民たちは意識の中には、「本当は実現していないけどね」、という不満がたまっていくだろう。でも形の上では民主的なのだから、それを言い出すことはできない。自分の不満を突き詰めていけば、それは学歴という問題にぶつかることは目に見えているし、やっかいなことに学歴とは、それが何らかの仕方で人々を支配しているのが明確であるにもかかわらず、僕らはそれを口にすることができない、口にすれば「みっともない」と非難される問題なのだ。そしてますます卑屈になり、ルサンチマンがたまっていく。「社会をつくる自由」は達成されるかもしれないが、はたしてそれって、本当に自由なのだろうか。


これはおそらく、「集合住宅型デモクラシー」の実現後になって、始めて顕在化しそうな問題だ。この著者はそういった運営上の問題を軽くみているのか、集合住宅型デモクラシーがもし実現されたときの、具体的な話はいつもはぐらかす。議論の場が設けられれば、だれもが気兼ねなく、何をひがむことなく自由に意見を言い合えるという民主主義のあり方。それはそれですばらしいことかもしれないが、実現されるには、僕たちはあまりに人間ができていない。

「現実を知らないね」なんていう陳腐な決まり文句は使いたくないが、こういうのは「きれい事を言うな、というきれい事」だと思う。