いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

一行紹介を参照


この方も、そして読み手もブクマを見る限りほとんどの人はそれをわかっているだろうとは思うのだが、それでも一応書いておく。


orangestarの日記


大塚英志を始めとするラノベ論がこれだけ氾濫し、ラノベが誰だって書けるということがこれだけ喧伝され、物語というものの「種明かし」がこれだけされてもなお、それでもそれを売りそれを買うという市場が市場として成り立っているのは、単に「書ける」ということと「売れる」ということは全くの別問題だということだ。大塚英志はその著作*1において、物語が誰でも作れて、小説は誰でも書けるということを看破しながら、「売れない純文学」批判を展開するのだが、それでも「売れるラノベ」と「売れないラノベ」の間には、歴然とした差があるのである。大塚のややずるいのは、その「差」の論点を、意図的にネグレクトしているところにある。


では、その差とはいったい何なのか。それは、人を惹きつける小説とはいったいなぜ、人を惹きつけるのか、という問いと同じである。大塚は『更新期の文学』で、文体さえもコピーできるプログラミングが開発されている(あれからどうなったのかな?)と書いていたが、それは例えば「村上春樹の文体」をコピーできるだけで、「村上春樹の小説が人を惹きつける理由」を解明したことと、同義ではない。
それはカントが天才論で書いたことと通ずる。カント曰く、たとえ天才の模倣ができたとしても、天才が天才である由縁、天才のすごさを論理的に説明することは不可能なのである。


技術のレベルである程度までは解明できても、理知的に説明できない、いわく言い難い「何か」がそこにはきっと残る。売れっ子作家がそう書いて、売れっ子でない(それでも小説を書ける)作家がそう書かない理由。それは、草薙素子に言わせれば「ゴーストがささやくのよ」とでもしか表現できないことなのかもしれない。

*1:キャラクター小説の作り方 (角川文庫)