http://d.hatena.ne.jp/kosyu/20090413/p1のエントリーからたどり着いたこの動画。
学術研究というのはフーコーが『性の歴史』等で喝破したとおり、対象に関する記述を包括的、網羅的に列挙していくという知/権力の営みである。厳密さを突き詰めていくと、学術研究における執筆者のオリジナリティは微々たるものになる。論文は常に先人たちの研究がいくえにも積み重なった地層のようなもので、研究者本人のオリジナリティをあるとしたら、それはその地層をすべて積み重ねることができた後に、やっとこさその上に載せられる限りなく薄い表皮のようなものだ。
だからこそ研究者の論文の題目は「○○(作家名)の『××』(作品名)における△△(人物名)の純愛性について」とかいう風に入れ子状になっていて、対象領域をできるだけ限定したものになっていく。できるだけ狭めなければ、先行研究の地層を組み立てることだけでも困難になるし、話題が広がれば、それだけほころびも多くなり論文としての完成度に響く。
そんな中、偶然見たのが上記の動画である。僕の大学院の専攻は芸術であるものの、専門は日本画でも浮世絵でもないし、おまけに芸術の善し悪しを見抜くような選美眼を誇っているわけではないので(じゃあなぜそこにいる!?)、この作品の芸術的評価はわからない。しかし、少なくとも浮世絵それ自体、あるいは北斎や広重の論文を書こうとしている研究者は、一度は目に入れておいていいものではないだろうか。
学部生時代など、よくレポートにネット上で拾った情報は不可、あるいは好ましくないとした教官がいた。たしかに論文の引用元の文献としては、加筆修正が容易なネット上に配置されたテキスト好ましくないのかもしれない。しかし、単にネットに転がっているからという理由だけで、その資料の学術的価値がなくなるということには、疑問が残る。反対に、紙に印字され、もう消すことのできないというその一点において、そこまで紙媒体だけが学術的価値を占有していてもいいのだろうか。先述したとおり、アカデミズムの性質が包括的、羅列的である以上、紙/ネットという区分をしく行為そのものが、「非アカデミズム的」ではないか。
インターネットと、それを通した発信者の増加によって、研究領域をどんなに狭めても、今からの時代その研究対象を包括的に語ることは不可能になるのかもしれない。なぜなら、どんなに網羅的に収集しようと、ネット上ではもしかすると今現在も、浮世絵を元にした優れた二次資料が、新たな言説が生まれているかも知れないからだ。畢竟、研究に終わりがなくなるということになる。
ネット上であらゆる対象についてのあらゆる言説が、ますます生み出されていくだろうこれからの時代、もし学術研究がインターネットをその可変性の一点において、学術的資料としてネグレクトすればどうなるか。
さすれば早速、アカデミズムはそれまで保っていた権威を失い、「紙の資料しか扱わない」ことを前提としたローカルなオタク集団のone of Themに成り果ててしまうのだろう。