いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

君は彼らを笑えるか――脳性マヒブラザーズの壮大なる挑戦

3日に放送された、NHK教育「きらっといきる」の再放送「感動するな 笑ってくれ」の回を視る。ゲストは2人組のお笑いコンビ、脳性マヒブラザーズ。コンビ名の由来は、その名の通り、2人とも脳性マヒを患っているから。どストレートだ。


彼らにはある不満があるという。他のコンビらとの合同でのコントライブに出演するとき、終了後にアンケートを回収する。他のコンビは、「面白かった」「笑い泣きした」など、ネタそのものに対しての評価がなされている。一方彼ら二人については「感動した」など、ネタについてではなく「障害があるにも関わらずお笑いをしている」ということにしか言及されないし、評価されないというのだ。観客にとって彼らは「参加することに意味がある」。そんな風に、他のコンビとは「別枠」でしか彼らは評価されない。番組の副題通りのそれが、今の彼らの不満だ。こっちは笑わせようとしているのに、感動してどうすると。それは一種の侮辱だ。



だがそのことでアンケートを書いたファンを僕らは責められるだろうか。現に彼らは番組中にネタをやったのだが、他の出演者、そして視聴者の僕も含めそれを観る側のつくる雰囲気、反応のなかに、真剣にネタを観ているというよりも、やはりどこか彼らが一生懸命お笑いをやっていること、やろうとしていることに対して向けられる「暖かいエール」のようなものが含まれていたことは否めない。だからそれをやめてくれって、彼らは言ってるのに。


これはお笑いに限ったことでない。この番組を通して障害者が積極的に社会参画しているのを視るにつけて、僕らはどこかその人を「別の評価基準」を基に評価してしまうところがある。そんなあらがえない心理的な規制と同時に、その規制そのものに対して「やましさ」をも覚えてしまう。


ことにお笑いは、そのような心理的規制とはまるでかけ離れたところで行われているようでいて、実は各人のそれがもろに露呈する領域なのかもしれない。
デブでもブスでもハゲでもチビでも、笑いのネタにはなる。それらは身体的特徴であり、ふつうならば指摘するのは非礼に値することなのだが、その相手が「お笑い芸人」という職種の人間である限りにおいて、僕たちはそれを呵責なく笑うことができる。しかし、というかそれだけに、このお笑いという空間によって露呈されるのは、健常者と障害者の間に横たわる壁が、僕たちが思っているより何倍も厚いということだ。


僕たちはたとえデブでもブスでもハゲでもチビでも笑えても、障害では笑えない。その人が、他人を笑わしてナンボの職業を生業にしているという前提に立っていようと、目の前で起きていることを自分の感覚が面白いと感じていようと、「障害者を笑い者にしてはいけない」という「良心」(ここはあえてかっこ書き)の声の方が、それに優ってしまうのだ。
やっかいなことに、リベラルな(をよそおう)社会ほど、この「差別への過剰反応から生まれる差別」の隘路にはまってしまう。しかもそれは、「ある意味それも差別だよ」ということもあまり意識されないまま、空気のようにうすーく蔓延している(冒頭のお笑いライブの客のように)。



確かにこれは、きわめて難しい問題だ。
脳性マヒの症状で、特にボケ担当の周佐則雄はろれつが回っていない。はっきり言えば話し方が変なのだ。例えば、そのろれつが回っていないことそのものが彼らのネタに組み込まれたとき観る側の僕らは、「芸人にネタで笑わされている」のか、それとも「障害者として笑い者にしている」のか、その区別はつけがたい。いや、その区別はないに等しいかもしれない。なぜなら、彼らが主体的にそれをネタに組み込もうと、それは障害の結果であり、障害がなければそのネタは生まれなかったのだから。
そのような懸念から最近、彼らは障害者ネタを封印したという。しかしそれでも彼らの外見、しゃべりかたという彼らのネタの内容ではない形式において、それが現れてしまう以上、現状では僕らが彼らを笑う際について回る、ある種の「やましさ」をぬぐい去ることはできない。


健常者だろうと、障害者だろうと、舞台上で面白いことをしているのなら笑えばいい。そのことは十分わかっていても、障害者ということが心理的規制となり、一瞬のためらいが生まれる。笑い声もどこか後ろめたさが残る。そしてそれらが、場の空気が命のお笑いに関して言えば、きわめてネガティブに作用してしまう。



なるほどと思ったことがある。番組スタッフが脳性マヒブラザーズと同じ事務所の芸人たちに、彼らの印象を訊ねたインタビューが流された。事務所の先輩後輩であり、そしてライバルでもある彼らは、2人が障害そのものをネタにすることを封印したことに触れ、「彼らの個性なんだからむしろもっとアピールした方がいい」と冷静に、淡々と論評していた。笑われてなんぼの世界で、彼らの目はシビアに2人をとらえている。しかし、それは同じ「お笑い芸人」という土俵から見ている視線だからこそ、「お笑い芸人」として2人の現状を的確に射抜いているのではないだろうか。少なくとも、彼らを観て「感動した」などとついつい言ってしまうファンたちの目線よりは。


奇しくも同じお笑い芸人の松本人志がかつてこう言っていた。

「『ほら、あそこにいる車椅子の人』というような紹介の仕方が、何のためらいもなくできるようになったときこそ、社会から本当に差別がなくなるとき」(大意)

誤読を招きかねないかもしれないが、この言葉は障害者に対して持つ僕らのともすればお節介になりかねない「気づかい」を端的に射抜いている。



脳性マヒブラザーズは自分たちの目標を、「M-1出場」と強く語った。あえて言おう、技術的なレベルではその道のりは短くはないだろう。もしかすると結成十年以内という条件では、彼らにはたどり着けない到達点かもしれない。
しかし僕は、彼らのこのお笑い芸人として大成するという挑戦が、もう一つの壮大な、スケールの大きな挑戦をも含意しているように思う。それは、先に書いた「差別への過剰反応から生まれる差別」への挑戦だ。先にも書いたとおりこの差別は、口先だけの「リベラル」を語る輩が多い中、今やもっとも気づかれにくくかつ指摘しにくい部類の、健常者と障害者の間に横たわる厚い壁だ。
彼らのネタを、僕らが呵責なく「がはは」と笑えるようになったとき。それは彼らがその厚い壁に、微細ながらも一つの風穴を開けるときなのかもしれない。