いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

才能はホクロ


才能というのはおもしろい。
才能とは何だろうか。才能とは物ではない。視覚化されないし、数値化されない。才能とは、「才能としか言いようのないもの」につけられた仮の名前であって、僕らは才能というものをこの目で確認したことがない。しかし、だからといってその才能を「無い」とは言い切れないのもまた事実。才能という概念がなければ、僕らの周りには説明のつかないことが多すぎるのである。現にこの世には、ある分野において他の人がどんなに時間と手間をかけて修練を積んだとしても、到底おいつくことのできないパフォーマンスを、難なく披露してしまう人物が存在する。それら論理的に説明のつかない事実があるから、僕らはそれを才能という、いわばアクロバティックな理由付けによって納得させようとするのだ。それは見えないものについて、人間がつけた仮称なのだ。
カント美学による「天才」の概念は、おそらくこのことを指すのだろう。習って身につけることのできるものは、たとえどんなに難しいものでもそれは技術であり、習って身につけることのできないものこそが「天才」、つまり天から授けられたものとしか言いようのないものにこそ与えられる名前。それが才能なのである。

才能というものは、人間性を斟酌しない。もし努力なしになにごとかを成し遂げてしまうような、衆に抜きん出た物事を実現してしまうものを才能と呼ぶのならば、それはもう、まったく気まぐれに、ある人間に寄生する異物のようなものだろう。
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090410/1239296733

これは、才能についての核心をついた文章だろう。才能は、本人が望むところにあるものではない。自分の体のどこにホクロができるのかは自分に選べないのと同じように、才能のそれが「開花する鉢」の種類を自分では選べない。その才能があれば地位や名声を手にできるような領域に才能があれば願ったり叶ったりであるが、それがあったところで誰にもうらやまれないし、評価されない部類の才能も、同じくらい、いやその何倍も存在するのかもしれない。それも、偶然アゴの横についていただけで「色っぽい」ことになるのに対して、ヒザの裏についていたとすると、それがどんなに大きく立派であっても何の得にもならないというホクロと、同じ理屈だ。


才能は散在する。しかしその才能の散在することの事実を知っていたとしても、僕らはある特定の分野の才能しか認めたくないのである。たとえばそれがアートだったりする。
http://anond.hatelabo.jp/20090408121545

人々がアートやその周辺の才能「だけに」魅せられ、それを所望してしまうところには、哀しき論理的な転倒がある。
仮に、著名な芸術家を「才能があったからこそ有名になった人」としよう。でも多くの人の現状はこうじゃないだろうか、「有名になりたい、だからこそ自分にも才能があると信じたい」


ちがう。その人がずば抜けているのはアートの才能なんかではなく、被承認欲求の強さだと、身も蓋もないことを書いてしまう。