いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

あたしの体だって!?そりゃお前の体じゃねぇ!(改題)

「私」の同一性問題の次は、「私」の身体性。
よく、メジャーどころでない、いかがわしい事務所に所属して、乳首や下の毛が半ば見えているようなきわどい写真集やDVDを出すグラドルが、そのままAVへ直行というパターンがある。

そういう子たちも今の時代はブログを開設していて、日々の雑感を綴っているのだが、僕が興味をそそられるのはそれらの子が、AVに出演することをブログで発表する日の記事だ。いわばグラドルからAV女優への転身宣言。
ファンの方も動揺するのだろう。その日は、大抵の女の子が普段よりもコメントを数倍多くもらっている。中にはアンチコメントもあるし、ファンの人も一概に賛成しかねるというコメントを残すのだが、最終的に賛成するという意味を込めて「でも、○○(※アイドルの名前)ちゃんの出した答えだもんね!僕は応援するよ!」的なコメントを残すファンがいる。
しかし、これに関しては本心を曲げずに、思いっきり批判してもいいと思うのだ。

たとえば、未だに売春の是非は真っ二つに割れているが、それは当事者の側に「私の体は私のもの」という強力なロジックがあることが一因としてある。「あたしの体なんだから、どうしようと決定権はあたしにあるの!」という主張は、たしかに家父長制やら、それと付随してそれまで当然とされてきたパターナリズムやらを粉砕することに与したとは思う*1
ではアイドルの場合はどうだろう。もちろん生物的な身体は、彼女自身に帰属する。だが、アイドルという「虚像としての身体」はどうだろうか。
僕に言わせれば「虚像としての身体」に関して言えば、それは彼女だけのものではない。その身体は、そのアイドル本人と彼女のDVDを、写真集を買ってくれるファンという消費者たちがメディアを通して構築してきた、いわば「合作」なのだ。アイドルという「虚像としての身体」は、彼女とファンたちとの共有財だ。

その「虚像としての身体」の価値を、もっとも踏みにじる行為の一つこそが、読者もわかるだろうAV女優への転身なのだ。グラドルとしての知名度が少なからずある分、素人娘の出るAVよりかは話題性はあり、売れるのだろう。しかし、その子の出たAVが「素人娘の出るAVより売れたその差額」は、グラドル時代からのファンを裏切り、彼らをだまし取った分の金、とも考えられる。

もちろん、それまでメディアを通して彼女が構築してきたアイドル像という幻想は、けっして清純潔白なものではなかっただろう。だって乳首すけてる子もいるし。しかしそれでもなお、海辺で透け乳首を見せながらおっぱいゆらしている映像と、具体的な男にその乳首を舐められ性器をペニスで貫かれる映像には、千里の径庭があると思うのだ。

もしどうしてもAVに出たいならば、そのグラドルの芸名ではない、違う名義で出るべきではないか。ブランド品に狂ったか、ホスト遊びにはまって借金を作ったかは知らないが、グラドル時代のファンがお金を払って視ていた幻想を、例えその子自身だとしても、むやみにやたらと破壊する権利なんてない。


・・・と、ここまで書いておいて、こりゃ少々できすぎた主張だなということに気づいた。
グラドルからAVへの転身組は、そもそもアイドルとして売れることがあまり期待されていない、いわば泡沫アイドルだ。特に「AV無理」系に出演する女の子は、ある意味受け手の側も「その後の進路」をなかば了解済みで、モロ出ししていないコンテンツの存在は、その子を「元芸能人」に仕立て上げるためのいわば「泊付け」以外のなにものでもない、という場合がよくある*2

そう考えると、もしかすると彼女らを応援するファンの心理も、実は怪しくなってくる。つまり、グラドルとしてデビューして数作のコンテンツを「グラドルとして」残し、そのあと満を持してAV女優転身を遂げるというそのプロセス全体が、ファンにとっての「前戯」の一種だったのではないか。
グラドル時代に、そこそこ売れていればいるほど、AV出演には価値が上がる。それは、男が処女に価値を置くのと同じ理屈だ。尊いものほど、貶めたときの背徳的な快感が高まる。

*1:しかし自己決定において「あたしの体」に売春をさせた彼女らが、その後に精神的、肉体的に病んでいったという事実も僕らは覚えておかなければならないだろう。このあたりのことは宮台真司『制服少女の選択』にくわしい。

*2:ただ「AV無理」というとにかく「AV未満」のギリギリに挑戦するシリーズは意外と人気らしく、これには人間の性欲の仕組みのいびつさを感じる。