いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

私は私を“代弁”します

サバルタン(「自らを語る」機会を奪われている者)が、教育によって識字を与えられたらどうなるか。その何人かは自分や「同胞」の不幸な境遇を語りだし、その何人かは「抵抗」としての語りを紡ぎ始めるだろう。しかし同時に、少なくない数の元サバルタンが、「語れる」にもかかわらず語ることを選び取らないはずだ。もはや語るだけのリアリティが元サバルタンにはないのである。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20090408/1239134243

これは「私」というものの同一性の問題だ。
昨日の僕と今日の僕、2人は本当に同じ人物なのだろうか。少なくとも、教育を受けた元サバルタンたちの中には、過去の「サバルタンとしての私」とは「別人」、という人もいるということになる。彼らの「経験」は、文字の取得という過程を経て、不可避的に彼ら自身から離れていく。サバルタンの私は、つねに識字を獲得した「元サバルタンとしての私」によって、「代弁される」ほかないのである。結果、やはり「サバルタンは語れない」ということになる。
いやもしかすると、語り、抵抗するサバルタンたちも、いやひいては言葉の海にとらわれている「人間」はみな、過去の自分の代弁者に過ぎないのかもしれない。

言葉は表現手段だ。その言葉を獲得によって可能になったことも多い。だがしかし、実はその表現手段そのものに、「生の経験」をスクリーニングしてしまう機能が不可避的に内包されている。だから、自然主義文学は「事物をありのままに記す」という無限遠点への挑戦なのだととらえるすることだってできる。実際に「ありのままを話す」というのは夢物語に近く、それを実現させるにはそれこそ映画「ブレインストーム」のようなSFの世界になってしまうだろう。

ところで、

僕は幼い頃から背が小さくやせこけていて、その上気も弱かったので、同級生から格好の「いじめのターゲット」にされていた。

小学校、中学校では、ことあるごとに「ちび」「バカ」とからかわれ、持ち物がしょっちゅう隠された。「不潔」扱いされ、全然知らない隣のクラスの女子までもが、僕が廊下を通ると、露骨に避けて歩いた。

高校入学でやっと「悪友」たちから解放されたと思いきや、もっと冷酷な「悪友」たちが待っていた。中学校までは軽く小突かれる程度だったが、高校では明らかに悪意がこめられた拳が僕を襲った。

そこで僕は思った。今まではなんとか我慢できた。他人からバカにされるのはもちろん辛いけど、それには僕にも原因があるから。でも、今回のばかりはあまりにも理不尽だ。いくらなんでも、殴られる理由は僕にはない。

僕は、ボクシングジムに通うことにした。あいつらをまとめてボコボコにしてやろう。あいつらびっくりするに違いない。チビでやせでもボクサーの拳は、とてつもない凶器だ。

なんと。僕にはボクシングの才能があるらしい。トレーナーの人が言っていることはよくわからないが、とにかく僕の吸収力は普通じゃない、と。


ボクシングを始めて数ヶ月、僕はすでに「拳という凶器」を手に入れていた。もうその時には奴らを殴ってやろうという気は失せていた。思い出されるのはトレーナーの人の言葉。「ボクサーの拳は凶器だからな」
同上

現実においてはまた「別の結末」が用意されていることも、少なくない気がする。

ボクシングの才能が開花した僕は、僕をいじめた悪友たちの元に向かった。


だが僕はそこで、なんと悪友たちが原付の二人乗りをしたあげくに事故に遭い、重症を負ったということを聞かされた。
さらに、一生車椅子の生活になるらしいということも。


僕は黙ってその道を引き返した。


いざ語るとなったとき、僕らは相手の変容にもいやおうなく気づかされる。やはり相手も、その当時の「相手」でなくなっていることがある。
振り上げた拳を下ろす場所を見失う。間接的に恨みが晴れたかもしれないが、その相手への情念だけは胸に残ってしまう。
人生はまことに不条理である。