いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

僕たちはわかりあえないんだね(遠い目)


エントリーシートをせっせと書かなければならない身なのに、気がつけば本のページをめくっているダメな僕ちゃんが最近読了した本の中にこんな記述があった。

「私とあなたとでは価値観が違う」というのは、「あなたの価値観はAの体系、私の価値観はBの体系」ということである。(・・・)「価値が違う」とは、「帰属する体系が違う」ということである。(・・・)「私とあなたとでは価値観が違う」と言った人間は、その発言に基づいて「体系の違い」を見せなければならない。「体系が違う」と言うための「体系」を作らなければならない。

橋本治橋本治という生き方 WHAT A WAY TO GO!』、164p


ここでいう「体系」とは、今風にはトライブ、と言い換えるだろう。「価値が違う」とは、「帰属するトライブが違う」ということなのだ。
なんかよくわからんけど、いろんな「系」が最近もてはやされている。草食系男子、ロハス系と、アラフォー・・・はあれは世代論だからちょっと違うか。。とにかく、今やAとBどころではない。いろいろな価値をもつトライブが、お互いを知り得ないまま(知ろうとしないまま)乱立しているのが現実だ。
しかしその反面、僕の場合はこれまで自分と異なるトライブに属する人たち、例えば渋谷系Bボーイとかぶくろ系チーマーとかが、自分とあまりに価値の違うために出没地域も異なり、実際にお目にかかったことが少なすぎるため、「話してみたら、意外といい奴だったりすんじゃないの?」というささやかなる期待をもてていたのも、また事実だ。要するに前段の引用だと、前までの僕は彼らと「価値が違う」というのはわかっていても、その「価値の違い」というものを身をもって感じていないため、その「違いの実感」がひどく曖昧だったのだ。

しかし、その「価値の違い」とその違いの「大きさ」を実感するできごとがあった。
それは、最近流れているT字カミソリのCMにおいて。内容は、ある使用者がその剃り心地を述べるというものだ。丸坊主のその青年(23の僕ぐらいか、それよりもっと下かも)が、タメ語でまくし立てるわけである、15秒間。
何が言いたいかというと、僕はこのCMが、めちゃくそ嫌いなのである。とにかく不快なのだ。まずその男の風体に腹が立つ。ガテン系とか、ヤンキーとか、DQNとかいろいろあるからひちめんどくさい、ここは一挙まとめて「エグザイルおよび倖田來未を聴いてそうな奴」系と表現しよう。そんなやつの一派なのだ。何なんだ?あの高圧的な態度、おめぇなんかに勧められたカミソリ買わねーよ!と、とにかく不快になる。
そんなに嫌いなら、映るとわかった瞬間にサッとチャンネルかえるなりなんなりすればいいじゃんと思われるかもしれないが、あまりにむかつくので、あえて視てやろうとさえ思ってしまう。


しかしである。CMを始めとする広告とはふつう、視る者を快を与え、購買意欲を高めることが目的のはず。それをあろうことか、反対に不快にさせてどうする、という話ではないか。大企業のCMだ。おそらく作り手も、百戦錬磨の広告マン。そんな手練れが、特にT字カミソリの購買層かもしれない年齢に属する僕を(実際にT字使ってます)、不快にさせるようなCMを作ってしまったというのは、いったいどういうことなのだろう。それは単に、弘法も筆の誤り、ということで片づけられるのか。


いや、違うのである。僕の考えは、根本的に間違っていたのだ。あのCMは、僕という受け手の快のスポットを外した「駄作」などではない。そうではなくむしろ 大多数の受け手にとっては、購買意欲という「快」をそそるものだったのではないだろうか。それは、僕が圧倒的なマジョリティーから、すでに外れている、ということをも同時に意味する。


これは、ある意味凄まじい話である。僕が視て不快になるようなものを、むしろ快適に受け取る人が、同じ地球上にいるなんて。それこそが、僕と彼らの間に厳然と横たわる、大きな大きな谷のような「価値の違い」なのだ。


※快/不快については、最近はてなで流行ってるセクハラについても書くかもしれないですが、それはまた、別のお話。。。