いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

顔のない整形美人


テレビをぼけーっと視ていたら、7時からこういう番組をやっていた。ある有名人の親兄弟を訪ねていって(その時点では誰の親族かは明かされない)、クイズ形式でヒントが小出しにされていく。視聴者をじらしきった末、結果的に誰の家族なのかが明かされる。この番組は以前にも、ある職種の月収やら、あるアニメの声優やらの顔出しなどを、当人のもとに突撃していって交渉(しているという体で)した末に公開するということをやっていた。

こういうのって、なんだか貧しいなぁ、下世話だなぁと思ってしまう。そんなこと言いつつ、見てしまう自分もいるのだが。

なぜ下世話かというと、人様の月収を明かすことをエンタテイメントにしているから、というわけではない。テレビの方法論的にそれは貧しいのだ。そういったテレビは、今まで僕らが知ることのできなかったことを知る、視ることのできなかったことを視る、という低レベルの好奇心を刺激しているだけだ。だからこそ下世話なのだ。それって、人間として最下層にある好奇心じゃないだろうか。


その「最下層にある好奇心」を刺激することをエンターテイメントとして成功させたのは、例の「トリビアの泉」だった。「明日使えるムダ知識」というのがかの番組のキャッチフレーズだった。あの番組を視る者にとって主眼となっていたのは、「知識の蓄積」というものでは絶対にない。間違っても、あの番組を視て本格的に賢くなろうと思った人は少ないだろう。そうではなく、「知らない」から「知る」というスイッチを点灯させるような快楽、脳内の何かのボタンをOFFからONにするような快楽があの番組の売りだった。だから当の「トリビア」の内容はなんだっていい。OFFのボタンを押す指は誰のでもかまわないのだ。
その「最下層にある好奇心」をちょんちょんと刺激する、ただそれだけの単調な仕事に、作り手の側の嫌気が指してしまったのだろうか、「トリビア」は最終的に、既存の知識を披露するというものから、オリジナルな知識を番組で「創造する」という方向へ変わっていったのは、テレビとして進化したと、僕は言いたい。


「最下層にある好奇心」と言えば、あの「ビューティーコロシアム」だって、同じ穴の狢だろう。あの番組が下世話なのは、「美容整形」なんてものを見せ物にしている、という次元においてではない。あの番組も、「こんなビフォーの顔が、どのようなアフターに変わるんだろう?」という、視聴者の「最下層にある好奇心」を刺激しているだけなのだ。

普通に考えれば、まだまだ日本ではタブー視されている感のある整形美人を、テレビにおいて白日の下にさらされながら行っては、綺麗になる意味がないのではないか?という疑問も生まれるはず。

しかしかまわないのである。なぜなら僕ら視聴者は忘れてしまうのだ、整形美人の顔なんか。それは、美人ほど没個性的な顔であり、群衆に紛れればわからなくなってしまう、ということでもあるが、それだけでもない。
ただ単に、僕らの好奇心はアフターが披露された時点で、終息に向かっているからだ。その人がどのような美人になったか。どのような人生を歩むのか、というその後にまで僕らの好奇心は続かない。ビフォーからアフターにかけて「どれだけましになったか?」、その「差額」にしか興味をそそられないのだ。それこそが、僕の言う「最下層」が「最下層」たる由縁なのだから。