いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

中規模の聖子ちゃんたち


インターネットが普及してから、意外と言われていないのが、ナルシシズムの適量な充足機会の増大ではないだろうか。
例えば、かつてみんながみんな松田聖子に憧れた。でも、聖子ちゃんのようになれる人は、その中のごくわずかの限られた女の子だけだった。それでいいと納得した人もいれば、納得できないままでいた人もいたのだろうが、とにもかくにも聖子ちゃんと聖子ちゃんを取り巻くone of themたちの共同体意識がそこで形成されていたはずだ。
では今はどうだろう。大規模な夢を、大規模なまま叶えられるのは、確かに今でもごく少数の人たちだろう。でもそれ以外にも、例えば地下アイドルという、路上ライヴという中規模の形態で、それをとりあえず叶えることができるという土壌はできた。今や、みんながみんな壇上のスーバーアイドルに瞳を「キュパリンッ」とさせながら憧れなくてもいい。なりたい人はその共同体から去っていき、ちょっと頑張れば、中くらいの聖子ちゃんにはなれる時代だ。お互いが、適度な量のナルシシズムを叶えてもらい、また叶えさせてあげる、ナルシシズムの相互扶助の時代。


テクノロジーの発達によるところが大きいのだろうけれど、これって、本当にいいことなんだろうか。みんながみんな、見られる側に殺到し、みんながみんな、被承認欲求に身もだえる。その様は、あまりにも滑稽じゃないか?というか、なんだか自閉的で寂しくないだろうか。


先日、ある人から批判を受けた。ある会合の中で、僕が閉鎖的なコミュニティーを作り、自分一人でしゃべり他の人を抑圧している、というものだった。その会合で僕は、好きなことを、好きなようにしゃべっていたつもりだったので、その批判は寝耳に水だった。たしかに、そこには僕の知り合いが多く来ていたため、共同体的(もっと悪く言えば内輪的)な空間が形成されていたのかもしれない。共同体はしばしば、その外にいる人に対して排他性という名の牙をむく。それは中にいる人が故意なのかどうかにかかわらず。


しかしそれにしても、そこは議論をする場所であって、目立つことが目的ではない。誰がしゃべるかではなくて、問題はあくまで内容であって、述べたいことがあったら誰でも述べればいい。そこには目立っているか目立っていないで、優先権が発生するところではない。それを承知でみな集まっていたと思っていたのだが・・・。僕の中で、参加する前のその会合が閉鎖的でなく、むしろ開放的に見えていたが故に、その人の言ったことには、ちょっとしたショックを受けた。
そして、議論を勝ち/負けの二元論で物事を判断されていたことにも。僕自身がその開放的な会合で、その人にとって抑圧装置と化していたことにも。