いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

予備校アートの正体


大学院のある授業の最終回で面白い話を聞いた。その日の内容は、ある学生の発表を聴きながら、日本の現代アーティストの作品(主に絵画)をスライドショーで見るという形式のものだった。
その時である、一緒に発表を聞いていたある院の先輩の女性が、スライドに映る作品が切り替わる度にニヤニヤしながら口を挟むのである、「これも予備校アートだ」と。
興味を持った僕が、「なんすかそれ?」と聞いたら、彼女が教えてくれた。


村上隆は人間としてサイテーだ(どういう文脈でサイテーだと言ったかは、みなさまの想像力にお任せする)」と言って憚らない彼女によると、芸大出身の作家の作品には、共通する「癖」が現れるらしい。
日本の現状において、美大に入るためには美大受験専門の予備校に行くことが、ほとんど不可欠といっていい状態である。で、そこで習うのは、単刀直入に言って「芸大入試を通るための絵画」の技法だ。美大の予備校のことは、大野左紀子さんが『アーティスト症候群』の中で悲喜劇として明かしてくれているが、僕のその先輩によると、その予備校においてたたき込まれた制作のノウハウは、芸大に入ってからもとれないし、ましてや作家として独り立ちしてからも抜けきれないというのだ。その予備校でたたき込まれた作家の癖が端々に現れている作品こそが、彼女の言う「予備校アート」なのだ。


ここでは絵画についてだけだが、彼女の言う予備校アートの特徴は大きく分けて、次の2点。

■余白が多い
■細部の描写に力を入れる(例えば人物の手先など)


余白を多くするのは、限られた試験時間内で、いかに作品としての完成度を上げるかということの解決策だろう。マンガ論でも、夏目房之助が読者に何かを想起させるマンガの中の余白のことを、「間白」なんて言ってたっけ。二つめのほうは、単純に試験官はそこを重点的に見るかららしい。


そういう特徴を聞いても、素人目にはわからないのだが、その先輩曰く同じ芸大生だった身からすれば、一目瞭然らしい。彼女はこの大学院の直下の大学ではなく、学部は多摩美で実技をやっていた。つまり彼女自身も「予備校のアート」に毒されてきた人なのだ。僕も一応専門は美学、芸術理論のほうを志しているかな?というスタンスなのであるが、理論だけの人には絶対わからないことなのだろうなと思った、この「予備校アート」。

こういうのを聞いて僕が面白いと思うのは、一般的に見て「アウトローな生き方をしているだろうな」「オリジナリティーがある」と思われがちな芸術畑の人たちが、その畑の中において実はガッチガチの正統を歩む(歩まなければならない)ことになっているという、ねじれた構造だ(もちろん「芸術を志す」時点で、人間としては十分アウトローなのだけれども)。芸大以外の普通の大学を目指す場合、大学入学資格検定があるので高校なんて行く必要ない。たとえ高校を途中でドロップアウトしたとしても、「ドラゴン桜」的一発逆転もありうるし、予備校にだって独学で事足りれば行かなくてよい。しかし、美大入試についてはそれはまずない。予備校というのが、まさに読んで字の如く「登竜門」になっているのだそうだ。


いやぁ、前々から作家の「独創性」なんてもんはあってないようなもんだと思っていたけども、それでもこの話をきいて、僕はなんかへこんでしまったのである。
日本美術史もなんだかんだ系統で枝分かれしていくけども、実はそれらすべてが、強大な「予備校アート史」として一括りできるのではないか、と考えたら悪寒が走った。

もしかして、アニメーターとかにも、そのような構造的に植え込まれた癖みたいなのはあるのだろうか。代アニ卒業生だけが共有する癖で彩られた、「代アニアニメ」。
なんのこっちゃ。