いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

貧乏覚悟もできていない人文系院生


僕はまだ、博士でなく修士ではあるが、固唾をのんで読んでしまった。

「博士に行ったら就職難」どころか「大学進学=貧乏覚悟」の芸術系 - Ohnoblog 2


別に不幸自慢で張り合うつもりはないんだけども、人文系大学院生の僕も、芸術系の大学生に負けず劣らずヤバイ、という状況に瀕しているということに最近気がついた。
芸術系の人の中には、おそらくその何割かは別に芸術を志しているわけではないちゃらんぽらん人間もいるだろうが、それでもその大半は芸術を人生の芯に置いている人だろう。つまり、その人たちは生きる指針を持っている、ということだ。だからこそ、世知辛い世の中に放り出された後も、その冷たい風に耐える覚悟はあると思うのだ。そう、「芸術で生きる」という覚悟が。


それは芸術に限らない。何かに天啓を受けた人には、どんなに辛い境遇でも、それに耐えうるためのある価値転倒が起こっているのかもしない。それは、「生活が厳しくても、<好きなそれ>があるから頑張れる」という我慢の意識から、「<好きなそれ>ができるなら、生活が厳しくてもいいや」というもはや我慢でもない意識への価値の転倒だ。


しかしこちとら、吉幾三の歌ではないが何もねぇ。というか、「専門がないというのが専門」というような生き方なのだ。まぁ、学部時代からそうなのであるが、根っからのポストモダン人間なのである、僕って(かっこよく言うな)。そんなポストモダン人間が、人文系をやっている修士の人には、結構いると思われる。

それだけに、世知辛い社会に放り出されたときに、世間の風に耐えるためのコートとなりうる、例えば「どんなに極貧になってもニーチェだけは手放さない!」とか、「どんなに不幸になっても絵だけは描き続ける!」とかいう類の生きる指針が、今のところ脳内のどこを探してもないのだ。だからといって、修士課程へ進んだのが就職をあと二年先延ばしにするため、というだけのわけでもないのである。何かを突き詰めたいという探求心はある。でもその探求心の対象が常に同じとは限らない。それが探求心といえるのか、という話ではあるが。


伝え聞くところによると、企業戦士として去年卒業していった学部時代の知人の中には、俗世間の渦に巻き込まれながらも、なんとか「アカデミックなもの」とつながりを持ち続けよう努力している人もいるらしい。その人の家を尋ねた院の友人はその人の本棚に、フロイトの『文化への不満』がささやかにも収められていた、ということを目撃したという(読了したかは定かではないが)。
そんな人たちは「(大学時代に)もっと勉強しておけばよかった」と大学を出てから気がつくのだと言う。その「もっと勉強しておけばよかった」ということに、もう一年近く浪費しておきながらも、大学内にいて「アカデミックなもの」とつながっている間に気づいたことは、僕の大学院進学という選択の数少ない効用ではあったろう。


だがしかし、それでも僕の身には目前に迫っているのである、就活という戦争が。自室の隅にはうずたかく積まれた「エントリーシート」などの就活グッズが、目にはしたくなくても、もはや否が応でも視野の隅っこには入ってくる。それが今、人文系の本などが積まれたエリアと、勢力で拮抗し始めているのだ。
この拮抗は、やがて就活グッズの方の勢力を上回っていくのか、それともこのまま拮抗状態が続くのか、はたまた途中でどうでもよくなって、「やっぱ就活やめる!」とすべてダストシュートに葬り去られるのかは、僕にすらまだわからない。