- 作者: 小川洋子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/02/01
- メディア: 新書
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この本のタイトル「物語の役割」。著者によればその役割とはずばり、人が「受け入れがたき現実」に直面した際に、それを何とか受け入れられるようにするための“転換”のことだ。 確かに著者のいうとおり、物語ることは人間にとって不可欠なものなのかもしれない。数多の事象が複雑に絡み合った不可解な現実を、本来は無関係かもしれない点と点をつなげ、一本の「物語」にして認識することは、僕らから生きることの不安を幾分かは取り除いてくれるだろう。
また、精神分析家が患者を治す際に処方するのは元来「物語」であった―今では薬物治療が主流だと聞くが。患者の神経症の原因となるトラウマは、そもそも見つかるはずのない、語りえないものだ。そこで精神分析家は、患者と一緒に物語を構築する。それの整合性はその際不問に帰される。そうではなくて、症状の説明がつく物語が構築されるのである。
でもこれを読んでいて物語は、時に物事の成り行きを危険な方向に傾けることもあるよな、とも思ってしまうのである。たとえば、「物語の役割」を語る上で本書では、人類史上に残る悲劇「ホロコースト」に直面した際のユダヤの民の文学作品が例として取り上げられる。彼らは、自らの身に降りかかった受け入れがたい苦難を乗り越えるために、おのおのが物語を構築していた。
しかし、ホロコーストをここで例として出すのは著者にとって都合が悪いのではないかと思ってしまうのだ。なぜかというと、そもそもホロコースト自体が、それを引き起こした当のナチスによって構築された一種の「物語」の結末(「最終解決」)といえるからだ。
戦火にあった当時のドイツでは、国がユダヤ人によって牛耳られてしまうというシナリオと、それに対する解決策としての文字通りの彼らの絶滅という「結末」が、理知的な人間の思考の至極真っ当な帰結として考えられていたのだから。国際社会ではもはやほとんど否定的な見解しか許されないジェノサイドは、少なくとも当時のナチス党員の間では、それなりに真実味のある「物語」として受け入れられていたのだろう。
確かに物語は、人間にとってなくてはならないものなのかもしれない。でもそれは物語の一面であって、必ずしもそんなポジティブな側面だけではない。
当人にとっては徹頭徹尾、整合性の伴った物語を経た上での感情であっても、当人以外には「風が吹けば桶屋が儲かる」のごとく、荒唐無稽な妄想にしか思えないものだってある。整合性をともなった物語が選ばれるのではない。はじめから物語はすべて、当人にとっては整合性を伴ったものとして現れるのである。
ブログなどのコメント欄で、本文に対する意味不明であったり、的外れな反論をされるときがある。あれも、読み手本人の中では固有の物語構造が出来上がっているのかもしれない。その人にとっては、その記事を読んで得た着想(物語の始まり)から、コメントを書く(物語の結末)にいたるまで、全うな思考に制御されたまともな物語ができているのだろう。そのコメントにいたるまでの物語の流れを述べてくれる人ならばまだいいものの、物語の結末だけを述べられたのではたまったものではない。
また、失恋の辛さを考えてみると、どうもそこにも物語が関与してはいないだろうか。僕らが人を好きになるとき、そこで僕らは同時にひとつの物語をも立ち上げている。そう、僕という主人公が、その相手と最終的には結ばれるというハッピーエンドの物語である。片思いの期間が長いほど、この物語は長大で、重層的なものになっていく。であるからして、失恋して辛いのは相手に受け入れられなかったからであるとともに、自分が今まで大切に大切にはぐくんできた物語を相手の拒否によってぶっ壊されたからだともいえる。
このような物語の「副作用」が、個人が気分を害するといったレベルでとどまるのであればまだいい。
しかし、世には失恋をきっかけに相手のストーカーと化して「物語の続編」を作ろうとするやつもいるし、相手を殺戮するという「物語のジャンル」を変更してしまうやつだっているのである。それから、幼少の頃に保健所に保護された飼い犬の敵をとるために、何十年にもわたり殺意を抱き続ける男もいた。彼だってきっと、脳内では長い長い物語の主人公としての道を歩んでいたのだろう。
物語によって生きる意味を見出した人もいれば、物語によって他者への殺意を抱く人だっているのである。