いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

いつだって新しいやつは冷遇される


僕のライフワークのひとつは「松本人志の放送室を聴くこと」なのだ。しかし、徐々に録音しておいても聴くのが後手後手に回り、今やライフワークが「松本人志の放送室を録音すること」に変わりつつある(もっともスラヴォイ・ジジェクよろしく、テレビ番組はビデオに溜め込んでおけばそれだけで他の人に代わりに視てもらっているわけだから、ラジオだってそれでいいのかもしれないけど)。


相当な放送回をMD(懐かしいメディアだ!)に溜め込んでいるので、数えるのも怖いくらいだ。そんな中、先週の放送をふと聴いてみようと思った。

偶然にも先週は、松本人志が次回作の映画で忙しかったがために、彼の代役として元天然素材で知られる宮川大輔がゲスト出演。冒頭では松本の代役が自分で務まらないだろうとビビッていることを吐露していたが、終わってみればなかなか面白かったし、興味深かった。というのも、この放送では、彼ら天然素材に対するその先行世代からの扱われ方の実態が、後日談的に語られたのだ。

放送作家高須光聖宮川大輔といえば、最近では吉本が主催したあの100本映画において、監督と役者という関係として知られる。しかし、宮川は初対面のころは高須を松本に近しい人間であるからして、かなり警戒していたらしい。「(友好的なフリして)潰しにきたのではないか」、と。
当時の松本のナイナイに対する「チンカス」発言にしろ、吉本史上初めて踊れるという厳密な意味においての「アイドル路線」で売り出されていた天然素材をめぐる事務所内の状況は、かなり厳しいものであったのは確かなようだ。それ以外にも、銀座七丁目劇場当時の極楽とんぼなども、彼からすればかなり怖い存在だったらしい。
面白かったのは、この番組では「ダメ後輩」の代名詞的ポジションを確立している元芸人の「ヒノキ」が、楽屋に入ってくるなり、当時まだコンビであった宮川とほっしゃんに聞こえるように「松本さんと飲みに行って、天素なんてぜんぜんおもんないって言ってはったわ!」と叫んだというエピソード。宮川によればほんしゃんがその時悔しさのあまりプルプル震えていたというが、こういうのを聴くと本当に群れるということは人を強気にさせるのだなぁとつくづく思うのである。

そんなこんなで、彼ら天然素材もいろいろつらかったらしいのだ。

しかしこの「新興世代が旧世代から冷遇される」という図式に、僕らは何かデジャ・ブのような感覚を覚えないだろうか。そう、実はこの図式はダウンタウンNSC一期生が初めて「師匠を持たない芸人」としてデビューしたときにさかのぼる。実は彼らだって旧世代、つまり師匠(と師匠を持つ芸人)から冷遇されていたのである(もっとも、島田紳助明石家さんまオール巨人などは漫才の実力ではダウンタウンを評価していたらしいが)。天素をめぐる図式は、そのときの図式のそのまんまなのである。


何か新し人や物が登場したとき、それはいつも先行世代から目の敵にされる。いつだってそうじゃないだろうか?古くは姉たちに激烈ないじめを受けていた妹のシンデレラ。インターネットなんかもそうだろう。忘れちゃならないのはインターネットにとっての先行世代「テレビ」や「映画」だって、最初は色眼鏡で見られていたし、そのときの先行世代として持ち上げられていた「本」「読書」も、メディアとして生まれたときはあまりよいものとしてはあつかわれなかったという。そのことは、「反社会学講座」に詳しい。


反社会学講座 (ちくま文庫)

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こんなことから、一気に話を一般化して歴史のすべてを語っちゃまずいだろうけど、もしかすると左的な運動、革新的な運動って言うのは、永久的に実現不可能なのかもしれない。それも構造的な原因によって。
運動を起こすということは現状に不満を持っているということだ。ところが、同じ「現状」でもそれのどこに不満を持つかは千差万別なのである。Aさんが現状に対してもつ「不満A」は、Bさんが持つ「不満B」とは同じものであったり、重なる部分もあるかもしれないが、反対に全く共有できないもの同士かもしれない。例えば「エイジズム」は、老いに対して無頓着な「若い」フェミニズム運動に対する「不満」から生まれたようなものだ。さらには、その不満同士が真っ向から対立する場合もあり得るのだ。
その一方で、現状に肯定的な側はそもそも「現状のどこを肯定する」という思想を持たなくてもいいのだから、比較的に一枚岩の体制が整えれる。


左翼の中でも新左翼が生まれたり、新しく生まれる不満は、先行世代よりもより革新的になっていき、最終的には破綻を来たしてしまう。それはそもそも「右と左」の語源。18世紀から19世紀にかけてのフランスの政治状況がそれを物語っている。

世界史ではなく日本史でセンターを受けた僕の、付け刃的な知識の元ねたはこれ。


右翼と左翼 (幻冬舎新書)

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新しい世代が旧世代(たとえ同じ「民主」と「平等」を願う左翼的な運動だとしても)に対しての不満、あるいはまた別の不満を抱き、よりラディカルに尖っていく。そして尖っていけばいくほど、彼らが当初に掲げた理想とかけ離れていき、最終的に計画は頓挫してしまう。