いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

12月12日


その日俺は、夜の暗さと冬の寒さを感じ、近所のコンビニの放つ無機質な蛍光灯の光に、必要以上の明るさと暖かさを感じ、いざなわれるように中へと入った。
入り口近くのレジでは、60から70近くのおっさんが、なにやら店員三人に言っている。話を聞いているとどうも穏やかではない。全身ねずみ色のスエットにサンダル履きという出で立ちのその太ったおっさんは、店員に因縁をつけているのだ。しかもそれは、聞いている限り根も葉もない言いがかりに近いものだった。ろれつが回っていない。おっさんは酔っ払っているのだ。

そのおっさんの怒号とともに店内を包むのは、あの気まずい雰囲気。コンビニには俺以外にも3人の客がいた。こういう場に偶然居合わせた際の、見ず知らずのもの同士が共有するあの「変な現場に居合わせちゃいましたね」という浅く薄い連帯感。そのうちの一人の中年女性は、先ほどからレジのほうをチラチラ伺いながら、店の中を周遊していた。どうやらこの人は、あのおっさんが怖くてレジに行くのをためらっているのだ。

こういうとき、俺の中で破壊欲動とみたいなのが働くのだろうか、その気まずい空気を打ち破ってみたくなるのだ。「よし、俺が壊してやろう」と。俺はおっさんが怒号を響かせるすぐ隣のレジに品物に置き、「あと、あらびきポークフランクをください」と店員にフランクフルトを注文。おっさんは俺の方をチラッと伺うと、それ以上は怒鳴りづらくなったのか、「おぼえとけよ!」とはき捨てて出て行った。わかるよ、やくざがかたぎの者には手を出さないように、こういうおかしなおっさんも店員以外には手を出さないんだな。

コンビニ袋をぶら下げながらの帰り道、俺はコンビニの中で起こったことを思い返していた。ああいうおっさんには、電車の中、店の中などで何度か居合わせたことがある。あのような人間を、俺は軽蔑する。羞恥心はないのか、周りから疎まれていることに、あんたは気がつかないのかと。彼らは結局、見ず知らずの人間に自分の現状や生活に対する不満や怒りをぶつけているだけなのである。その身振りの醜さに、彼らは気がつかない。それは公衆の面前で排泄行為をしているのと同じなのに。

しかし、よく考えてみるとあのおっさんを責める権利が俺にあるのだろうか。生殖能力はなくなり、もはや余生となった人生を、国から年金を搾り取ることでかろうじて生きながらえている。今死んでも、明日死んでも、さほど変わらない。誰も困らないし、誰も、悲しまない。そんな彼らが、社会の切れ端に不満をぶちまけることを、俺にとやかく言う権利が本当にあるのだろうか。それに、いつか俺があの「おっさん」の役回りにならないなんて、誰が言えるだろうか。

それにしてもあの三人の若い店員は災難だったろう。表情はムスッとしていたが、そのおっさんの支離滅裂な話を、ご丁寧にも相槌を打ちながら聞いていた。店員と客という、絶対的に逆らえない関係。もし別の関係で出会っていたら、きっとボッコボコにしていたはず。

そんな彼らを救ってやったと、俺はちょっとした英雄気分になって部屋に戻った。
袋を開くと「あらびきポークフランク」につけるはずの、あの「パキッ!」っと折るタイプのケチャップとマスタードのケースが入っていない。災難が去った直後で気が抜けたあの店員、入れるのを忘れたのである。
今度は俺が怒鳴りこんでやろうかと思ったよ。