いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

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“ものまね四天王”清水アキラ、山本高広に苦言                                                   

不思議なもんである。「人のものまね」という表現は、特権的なオリジナルを模倣したものの意であり、もともとは侮蔑的な意味合いも込められていたはずだ。しかし、テレビが「ものまね」というお笑いジャンルを「発見」した後、そのジャンル内で芸の面白さや技巧の淘汰が発生し、今やヒエラルキーや権威までが認められている。だからこそ、「ものまね王座決定戦」や「ものまね四天王」という言葉を、僕らは無矛盾的に受け入れることができるのだろう。本来なら、「人のまねなのになんで“王座”なんだ?」「本当の王は、まねされた“ご本人さん”なんじゃない?」という疑問が浮かんでも不思議ではない。
そんな中最近、「キター!」でお馴染み、織田裕二のものまねをする山本高広に対して、織田裕二の事務所が「ものまね禁止令」を出したのだ。織田裕二自身も、あまりよくは思っていなかったらしい。
でも彼らは、ものまねの本質というものをわかっていないのではないだろうか。

元来、ものまねをものまねたらしめているのは、いったいだれなのか。それはオリジナルではないし、観ている観客でもない。何を隠そうそれは、ものまねをする本人だ。学生時代の教師のものまねから、プロの芸人がやるものまねまで、みんなそう。すべてのものまねは、「今から×××のモノマネをしまーす」という本人の“宣言”なくしては、ものまねたりえない。
「コロッケの野口五郎」も、「清水アキラ谷村新司」も本人にはほとんど似ていないといっていい。彼らはそれを、野口五郎の、谷村新司のものまねであると、まさに漆を何度も塗り重ねていく伝統工芸品の如く、何年も何年も言い続け、僕たちお茶の間に浸透させていったのだ。

それに対して今回のものまね禁止令は、“ご本人さま”というものまね芸人にとっての「絶対的権威」が、わざわざ「俺のものまねをするな」と言及してくれたのだ。表面的には禁止令の体裁をとりながらもそれは、織田裕二側がご丁寧にも山本のものまねを織田裕二のものまねと認めてくれた、ともとれる。なぜなら、織田サイドが何も言わない限り、山本は自分で宣言し続けなければならなかったのだから、「今から織田裕二のモノマネをしまーす」と。つまり、織田裕二側が出したのは禁止令であるとともに、「お墨付き」でもあるわけだ。

今後、ブラウン管の中で山本高広のものまね、「織田裕二」を観ることは叶わないだろう。しかし、今回の一件で、僕たち視聴者の胸には残るのだ。
山本高広のする「織田裕二のものまね」は、織田裕二自身が「認めた」ものまねだったのだ、と。
そして、だからこそ彼の織田裕二は永遠の闇に葬り去られたのだ、と。