いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

小悪魔

思わせぶりな態度でこちらを挑発、こちらもあまりに非モテ暦が長かったせいで最初は疑っていたものの、「本当にいけるのか?いけるのか?」と、慎重に調査を重ね(ほとんど自問自答なのだが)、その上で恐る恐る告ってみれば「ごめんなさい、あなたのこと、友達としかみれない」とほざく。こちらとしては「(あんな態度しておいて)なぬー!」という話なのだが、冷静にそいつを観察してみれば、自分だけでなく周りの男すべてに同じ態度をとっていた、という女。
そういうのを、小悪魔系女子という。


「小悪魔」という名がつくからには、彼女らにはどこか「悪」と呼べるものがあるのだろう。そう思って、突き詰めて考えていくと、とたんに彼女らを糾弾する術を失う。
そもそも彼女らの行為は、どの時代の人間社会にも通ずる基本的な道徳的規範(人を殺してはいけません…両親は大切にしなければなりません等々)に反しているわけではなく、彼女らは道徳的に悪ではない。ましてや、法的側面からみても、何にもやましいところは見当たらない。
では、何に対して「悪」なのか。それは、彼女らにだまされた、ある特定の被害者(と自認している)の人間の内面においてしか存在し得ない悪なのである。つまり、彼女らが悪とみなされるその根拠とは、彼女らにだまされる男たちの被害者意識にしか存在しえず、では反対に彼女らがどうすれば「善」になりうるのかというとそれは、彼ら被害者のことを「本当に好きだった」というパターンでしかありえない。それ以外のすべてが悪なのだ。
どうだ。このように解きほぐしていくと、小悪魔系の女子を批判している、その批判者のみみっちい被害者意識の内実が、彼が批判すればするほどますます暴かれていくという奇妙な構造に行き着く。
 

ネオリベラリズムの風が吹き荒れる現代。そもそも恋愛の分野が経済に先立って、何もかもが自由な「恋愛自由主義」だったのだ。モテる能力があるならそれを存分に使ってもよし、一度に複数の者の好意をわしづかみにしておくもよし。
一人を熱烈に愛することこそが善である、ということは必ずしもいえない世界なのである。なんせ自由なのだから。
その点から言えば、小悪魔系女子とその恋愛を批判する人間のみじめさというのは、かつて一世を風靡した堀江貴文を道徳的に批判する者たちのみじめさと相通ずるところがあるのである。

そんなに自由恋愛というのが嫌だったら、早く法的に厳格に規制された「一夫一婦制」という共産主義体制、「結婚」の世界に逃げ込めばいいだけの話なのである。
 
そしてまだ僕らは、自由恋愛の夢を捨てきれない僕らは、小悪魔の毒牙にはまり、またしても酷い目にあうのであった。