いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

今の自分は過去の自分の連帯保証人

小室哲哉が知り合いの会社社長から五億円を騙し取った詐欺罪で逮捕された。
今日の午前中のことで、各局のワイドショーがこのニュースを大々的に取り上げていた。しかしその報道の焦点はどれも、その被害額が「五億もの大金」というところにではなく、先日の加勢大衆の大麻栽培というような単なる芸能人の犯罪というカテゴライズでもない。小室の事件の取り上げ方はどのメディアの焦点も、かつては長者番付に名を連ねた小室が「たったの五億円」(「五億もの大金」ではない)で愚行を働いた、という点に集まった。
たしかに、90年代のJポップ史とは小室哲哉の歴史といっても過言ではないのかもしれない。小室ファミリーはミリオンヒットを連発させ、彼は長者番付にも名を連ねた。貯金は100億をゆうに上回っていたという。
この事件で考えさせられるのは、永遠に分かり合うことが不可能な二人の人間についてである。その二人は、この詐欺事件の被害者と加害者のことではない(もしかすると、彼らは法的プロセスを経た後に和解するという余地が残されてある)。
そうではなくて、その二人とは願望充足後の自分と、願望充足前の自分のことだ。
例えば、焼肉屋で夕飯を腹いっぱい食べたその日の深夜に、小腹がすいたとしよう。その時僕が惜しむのは、夕飯で残した牛ロースの最後の一切れを食べなかったことである。たしかにあの時あれはもう食べられないはずだった。たとえ残すのはもったいないという意識が働いても、それでも僕の胃袋がもはや生理的にその一切れを受け付けなかったのだ。そのことは重々わかっている。わかっているのだけれどもそれでも「深夜の僕」は、その牛ロースを残したことに苦しまされる。
過去の自分がおこなった愚行のつけは、いつかは自分が返済しなければならないときがくる。今の僕は常に、過去の自分の連帯保証人承諾書に、問答無用に署名させられている。
彼は富と名声を経た後に、どうでもいいような見栄や自惚れ、自尊心に振り回されて、どうでもいいようなことに散財していったのだろう(もちろん僕も含めてたいていの人は、「富と名声」とセットになって「どうでもいいような見栄や自惚れや、自尊心」というものたちも身につけてしまうのかも知れないが)。

あの時代、五億円という大金に彼は「重さ」を感じることができなかったのかもしれない。あの時代の彼からすればそれは、一曲書けば、人に名義を貸せば、そこら中から集まってきた「はした金」だったのだろうから。
今回の一件は、かつての彼が五億円という大金の持つ五億円という大金としての重さの「軽んじた分」だけが、時代を経て、負債となって今の彼に返ってきたということなのかもしれない。