いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

婚活

人間誰しも、老若男女、金持ちであろうとなかろうと、死ぬときは一人である。しかし、その最期、意識の途切れる瞬間に傍らに誰かいてほしいではないか。ひとりぼっちで寂しく死を迎えるのではなく、誰かに看取られたいではないか。どこかの誰かが言っていた。葬式で泣かれた人数が、その故人の人生の価値なのだと。もし本当にそうならば、葬式では大勢の人に、鼻を真っ赤にしてそれはそれは盛大に号泣してもらいたいではないか。
そんな風に死期を盛り上げて(?)もらうためには、当然ながら家族が必要であり、家族というのは結婚しなければ増えはしない。一人で孤独死したくないならば、まず結婚に向けた婚活をしようではないか。

婚活という言葉は、言うまでもなく就活という略語にかけた言葉である。そしてこの言葉はさらに、「<若者>が就職しなくなった/結婚しなくなった」という社会の状況においても、ありがたくないことに就活と相関している。
でも、そういう文脈で使われる<若者>というのは、ある意味で用心深い性格であるとも解釈できないだろうか。就職することには常に、もし勤労意欲がなくなったらどうしよう、という不安がつきまとう。それと同じように結婚にも、「もし(相手を)好きでなくなったらどうしよう」という不安がつきまとうのである。何もかもが不確実な時代、僕らだって不確実、要するに気まぐれなのだから。
それに、もうすでに僕らは見てきたじゃないか。父親がつまらなそうな顔をして仕事から帰ってくる姿を。そしてその父親と母親の冷め切った夫婦の会話を。そういう「前例」によってもよおされる不安がある限り、就職にも、結婚にもなかなか踏み切りない用心深い性格になるのも無理からぬことではないか。

ためしに今の恋人のことをもう一度、じっくりと見直してみよう。
そのビミョーな位置についている彼のホクロを、君は一生愛せるだろうか?朝食の白米に毎日ドッカリとマヨネーズをかける彼女の生活習慣を、君は愛し続けることができるだろうか?
もちろん今の次点では愛することが(あるいは譲歩することが)できるだろう。でも僕は、20、30年後の自分の愛情にまでは責任は持てない。そんな赤の他人のことの責任を持てるほど、器の大きい人間ではないのである。


僕たちが結婚できない理由(そして、わざわざ婚活をしなければならなくなった理由)。
それは今現在において、パートナーを好きでないからじゃない。「いずれパートナーに飽きる自分」に、気がつくことが怖いからだ。