いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

恋人たちが飼っている生き物を僕も飼いたい。


友人に過去の恋愛の話を聞いたときなどに、別れる間際には「やばいかも」とか「別れそう」とか「ダメになりそう」と思うようになったということを、よく聞く(そして実際に別れた)。こういうニュアンスの表現を使って別れ際の自分と恋人の状況を表現する人が、結構いる。もちろん唐突に振られたり、唐突に別れがくるということもあるのだろうけれど、前々からその恋愛が終わるかもしれないという兆しみたいなのが、殊に恋愛には存在するらしい。また、別れそうにないときでも、「今は(彼/彼女との関係は)良好」という様な表現も使われる。

僕はこの年で未だ、誰とも付き合ったことはないのだけれど、こういう表現は聞いてる側としては興味深い。
普通に考えれば恋愛というのは好きあった者同士、自分が相手のことが好きで、相手も自分のことが好き、というきわめてシンプルな構造でできあがっているはずである。だから、「嫌いになった」や「好きじゃなくなった」という当人が持つ気持ちならまだわかる。しかし、この「別れそう」とか「ダメになりそう」っていう表現は、どこか他人事のような、まるでその恋愛が当の二人以外の第三の何者かによって支配されているように聞こえてくる。他の関係性においては、こんな表現は使わない。家族や友達と関係がこじれたときは「むかつく」や「腹立つ」で表現できる。それは自分自身の本心なのである。例外は恋愛だけだ。


そういう表現を聞くに付け、男女がつきあい始めると、二人で共同で「生き物」を飼い始めるんじゃないかと僕は思うようになった。それが動物なのか、植物なのかはよくわからないけれど、恋愛というのは、その生き物を二人が協力して大切に育んでいく営みなのではないか。視覚的イメージとしての恋愛は、僕の中でそのようにできあがっている。

だからこそ、二人の関係が危うくなったときの彼/彼女らの表現は「やばいかも」とか「ダメかも」になるわけだ。やばいのは、恋愛が始まったときから二人して飼い始めた、恋愛を司るその生き物の命のことなのである。その生き物が死ぬとき、恋愛も死ぬ。恋人たちは別れる。
その生き物が衰弱している時、死にかけている時、自分一人ではどうにもできない。もちろんパートナーにもどうにも出来ない。二人で必死に看病してやって、なんとか一命をとりとめる時もあるのだろうけれど、もちろんそのまま息を引き取るときもあるのだろう。


もちろんながら、その恋愛を司る生き物は恋人たちにしか飼うことは許されていない。
僕もそれを、いつか誰かと協力して飼ってみたい。