いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

『インザミソスープ』村上龍

いろいろなところに文章を書きすぎてて、自分自身のブログがおろそかになっているので、当初のポリシーを捨て「使い回し」もちょっとやっておきます。

イン ザ・ミソスープ (幻冬舎文庫)

イン ザ・ミソスープ (幻冬舎文庫)


この作品は例の神戸児童連続殺傷事件が起こり、そしてそれがすべて14才の、大人からすれば無垢なはずの存在によって引きおこされた事件であるのが判明するまでの、その同時代に読売新聞上で連載されていたという。

僕はどこかで聞き間違えていて、事件が起きた後に村上龍がこの作品を思いついて、作品に具現化していたのかと思っていたのであるが、実はそうではないらしい。単行本あとがきによると、この小説の核心部分の一つである、例のフランクの殺戮シーンの合間に現実では神戸で事件は起き、フランクが自身の半生をケンジに語っている最中に14才の少年が犯人として捕まったのだという。

起きた事件そのものを、後になって何らかの脚色をして作品として表現するのは、後出しじゃんけんみたいなものであって、ある意味簡単なことである(小説を書くこと自体は簡単ではないのかもしれないが)。でもしかしそれでは、その事件の表層しかとらえられないのではないだろうか。突き詰めれば問題は、そのような事件が起こった社会の方にあるのであって、事件はその社会が身もだえた末にボロッと吐きだした廃棄物、剰余であるに過ぎない。
僕らが思っている以上に、事件は起きる前に終わっている。それはプロセスではなくて、結果なのである。その結果だけを、後追いして作品や評論を並べ立てたって、もうそれは、社会に対する警告には成り得ないだろう。なぜなら、社会は自らが引きおこした事件によって、さらに形を変容させていくのだから。

それに対して、事件が起きるまでのそのプロセスそのもの、社会がどのようにもがき、どのような軋みをあげているかを、事件が起きる未然に的確に捉えることは難しい。でもまれに、それが当人も知らぬ間にできてしまうという人がいるのだと思う。
それができるのが村上龍であり、そのことが偶然にも起きたのがこの『インザミソスープ』に おいてなのだと思う。

この作家の、この作品を執筆した当初の心情を推しはかることはできない。それでも僕にそれを想像することが許されるのであれば、おそらくそれは社会に対して感じた「なんかイヤだな」とう感覚なのではないだろうか。なんかイヤな感覚。その作家自身にも明確に言葉にはできない、そういう嫌な感覚を小説にした、というところなのではないだろうか。
社会がもがき苦しんだあげくに吐きだした事件と、その社会に対してなんらかの感覚を持った作家が書いた作品が、同時的に生まれしかも奇妙に符合する。この作品はその一例なのかもしれない。カンブリア宮殿の彼しか知らない人には、この作品も手に取ってみて欲しいと思う。

松本人志にも、フリートークで突拍子もないことを言った後にそれが現実になったという類の話が、たしか数個あった。才ある人にはそういう「アンテナ」みたいなものがあるのだろう。いや、あると考えなければ説明がつかないことを彼らは言い当てる。


(初出、アマゾンレビュー)