いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

僕が童貞であることの中で、本当につらいと思っていること―誰かにとっての「カレ」としての僕ってどんなんだろう―

このブログを今読んでくれているのが、僕の知り合いならば言わずもがなのことだけれども、僕のことをよく知らない人のためにまず言っておくと、僕は童貞だ。


はてな界隈に限らず、いろんなところで言われていることだけど、それはたしかにつらいことだ。でも、童貞という言葉に込められている意味の中で、僕を一番つらくさせるのは、「一度も女の子を抱いたことがない」という部分ではなくて、「一度もだれかと付き合ったことがない」という部分。男の場合、性欲だけなら一人で処理できるしね。


そんでもってこの「一度もだれかと付き合ったことがない」ということのつらさは、「だれかと恋愛がしたい!」という渇望へとかわっていく。この渇望の成分には「人恋しさ」や「さみしさ」というのももちろんあるけれど、もうひとつある別種の成分も含んでいると思う。それはなにか。


僕が思うにそれは、「誰かのカレ」になりたいという渇望。まあ、一度も恋愛をしたことがないイコール一度も「誰かのカレ」になったことがない、というのは当たり前のことなんだけれど。それは、誰かの承認によって成り立つ「名のり」であるということが、重要なんだと思う。誰かが、「あなたは私のカレよ」と認めてくれなければ、この願いは叶わないわけだ。


僕ら一人一人の世界観は、誰かによって承認される自分の「名告り」を得ることで広がっていく。
最初は「誰かの子」としてこの世に生を受ける。人によっては「誰かの兄弟」であったり「誰かの姉妹」であったりするかもしれない。さらには「誰かの友達」になり、学校に入学すれば「誰かに生徒」になっていく。就職すれば「誰かの部下」なるだろうし、結婚すれば「誰かの夫」、さらには「誰かの親」になるんだ。それはもちろん属性だけではなく、僕らは名告りを増やしていくことによって、自分にとっての新しい考え方やコミュニケーションの接続の仕方をも増やしていく。そんな新しい考え方やコミュニケーションの接続の仕方こそが、新しい世界の見方、世界観だと僕は思う。


僕もそれらを大抵は制覇してきた。誰かの子であるし、兄であるし、学生であるし、友達でもある。そして、いずれ就職するんだから、誰かの部下にもなるのだろう。


でも、その中にはまだ僕が出会ったことがない<僕>がいる。そう、それこそが「誰かのカレ」としての僕だ。

僕が「誰かのカレ」になるということは、そのある一人のカノジョのことを自分の人生の見取り図に換算して生きる存在になるということでもある。そこには、もちろん楽しいこともあるだろうけれど、独り身の時よりもしんどいことや負荷もかかるはず。でも、その負荷だって、それまでは味わったことのない、世界の見方を僕に教えてくれるはずだ。


僕のことを自分のカレだと認めてくれる、そのまだ見ぬ誰かを僕は、精一杯に愛するのだろうけれど(なんせ初めての「僕のカノジョ」になってくれた人なのだから)、僕は僕が「誰かのカレ」になったときに初めて見ることになるそんな景色を、待ち望んでいる様な気がする。