いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

女の裸という「不気味なもの」


ohnoさんのおもしろい記事。

クロッキーの授業が始まってしばらくしたら、気分が悪いと言って退室する学生が幾人か出たという。初めてヌードモデルを描くという緊張感で気分が悪くなったのか? 後で教官に訊くと、どうもそれだけではなかったらしい。

アニメーションコースに来るような学生は、だいたい女の子の絵を厭というほど描いている。実物の女のヌードを目の当たりにする前から、女の子のヌードの絵も描いている。そこで頭の中に、かわいくて理想的な女の子の身体イメージというものが、既に確立されている。

しかし。現実の女性はアニメ絵とは違う。ずっとずっとナマナマしくリアルそのものだ。二次元では余計なものとしてあらかじめ省かれたり簡略化されたりしている細部もある。体を捻った時にできる皺とか脂肪の盛り上がりとか毛とか、その他いろいろ。


三次元ヌードへの拒否反応 - Ohnoblog 2


フロイトの有名な論文「不気味なもの」は、語の解釈から始まる。
なんでも、ドイツ語で不気味なものを意味するUnheimlicheは、否定の接頭辞のUnをとると親しいものという意味のheimlicheになるらしい。しかしこのheimlicheには、親しいものという意味と同時に、そもそもは不気味なものという意味も内包されていたというのだ。


そんなこんなでフロイトは最終的に、今では僕たちが「不気味なもの」として自らの視界から退けているものたちが、原初のころは僕たちにとって非常に親しき存在だった、と結論づける。
例えば、女性器。僕も友達の家で裏ビデオの中のそれを初めて目撃したときは、おそらくモデルさんを見た「アニメーションコースに来るような学生」と同じ心境になっていたと思う(退席はしなかったけど)。気持ち悪かったし、不気味だった。でも、いわずもがな、僕たちはあそこからこの世にはい出てきたわけだ。


だけど、不気味なものは僕たちを遠ざけるだけではない。先に書いたとおりそれらは、かつて僕たちにとって親しい存在だったからだ。だからこそ、グロテスクな芸術作品は、僕たちに嫌悪を感じさせながらも、それと同時に不思議な誘因力をもつことになる。ここらへんは、バタイユのエロティシズムの理論と似ている。


AVのエグいプレイのシーンに顔をしかめながらも下半身はちゃっかり反応していたり、スプラッタ映画の凄惨なシーンに手で顔を覆いながらも指と指のあいだからしっかり覗いていたり。僕らのグロテスクなものに対する反応は、つねに両義的だ。


モデルさんに対する学生さん達の反応はそういう意味で、「不気味なもの」に対する反応(快/不快)のうちの一側面だったのだろうか。


でもそうなると、アニメーター志望の人はAVでは抜けないということなんだろうか。斎藤環によるオタクの定義「アニメ絵で欲情できる」(大意)は、道を極めれば「アニメ絵でしか欲情できない」になるの?そんなわけはない。ちなみに僕のヲタ友達は、大抵AVでもがっつり欲情できる。しかも、話によると学生には女性もいたという。女性にとっては、自らの身体が「不気味なもの」なのだろうか?それではあまりに悲劇的すぎる。



僕が思うに、問題は「その場」にあったんじゃないだろうか。
いつもと同じ教室、いつもと同じメンツ、いつもと同じ教師。そんないつもの「ありえる現実」に現れたのが、本来「ありえない」はずの女性の裸体。「ありえない」からこそ、彼/彼女たちは気持ち悪くなったのではないだろうか。


僕たちは生きていくために現実を「解釈」しなければならない(解釈しないと頭がおかしくなる!)。現実を解釈をするためには記号が必要だ。
そのように記号によって、現実を解釈可能な「ありえる現実」にする作用が、ラカン理論における象徴界だ。


しかし、現代の僕たちは、あまりに過剰な記号の集積を生きていやしないだろうか。
消費欲は、僕らの意識にのぼらないところで、広告業界という「記号屋」のあらゆる戦略によって統御されている。
性欲だって、記号による支配を免れることはできない(AVによって、欲情するのに「おあつらえ向きのシチュエーション」というのが、いくつできたことか!)。


僕らは今や、それらに記号に記号的な反応するように、飼い慣らされているといってもいい。

たしかに、表面的には快適であるし、それで上手くやってはいける。しかしそのツケは大きい。
もし象徴化できないものに出くわしたなら、もし記号化できないものに出くわしたなら、そのときはどうすればいいんだろう。

現実の女性はアニメ絵とは違う。ずっとずっとナマナマしくリアルそのものだ。
(同上)


記号に還元されない、象徴化できない「リアル」こそが、ラカンの言うところの現実界だ。
未来のアニメーター達はもしかして、教室で裸婦を見るという「ありえない」経験によって、今までの人生で練り上げてきた象徴的現実(ありえる現実)に、裂け目を入れられたのかもしれない。