いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

蟹工船が流行るなら楢山節考も流行ればいいのに


今、小林多喜二の「蟹工船」が、ロスジェネ世代に受けているらしい。
当時のプロレタリアートに、現代の苦汁をなめる労働者が共感しているのだ。


最近、楢山節考を見たが、そういう人たちはこちらにもシンパシーを感じないだろうか。


僕はこれまで「楢山節考」という名前だけはぼんやりと知っていて、「あ〜、姨捨山の話ね」という程度の認識だった。
たしかに、それも映画の重要な主題の一つなのだけれど、それだけの映画ではなかった。
この映画の通奏低音となっているのは、「共同体のマネジメント」だ。


共同体内の生きるための資源の総量が足りなかったとき、その資源のもっとも有効な利用方法はなにか。


この映画の舞台は極貧の村落だ。資源の総量自体はかえられない。かといってこのままだと共同体内の総員が死滅することになる。
話は簡単だ。割り算の割る方の数、要するに人員を削減すればいいわけだ。削減対象となるのは、「その資源を無駄に費やすヤツら」であり、それは要するに労働力にならない赤子や、老人、近い将来ムラに重大な損益をもたらすムラの決まりを守らない者になる。
これは、現代の問題にも通底しないだろうか。


おおざっぱに言えば、今メディアを騒がせているのは、

「資源の総量」÷「資源を享受する人」の問題であって、政治はいかに「資源の総量」を増やすか、いかに「資源を享受する人」を減らすかを考える。


それが悪いとかどうとかではない。政治とは「そういうもの」なのだ。
この映画は、「水子」や「姨捨」を悪しき因習として批判する視線とは無縁だ。この映画はあくまでそれらを、クールかつ客観的に描ききる。この映画はそれらを肯定も否定もせず、あくまで「そういうものだ」という具合に見せている。それと同じように、現代の政治というものが「そういうものだ」というのが、村落というシンプルな構造を通して、初めてわかってくる。


他にもこの映画には、実は非モテについてのエピソードも挿入されている。
左とん平演じる利助は、筋金入りの非モテだ。兄弟がムラの娘といちゃついていても、彼は草むらか指をくわえてのぞくことしかできない。そんな彼は偶然、倍賞美津子演じるおえいが、彼女の父親から死ぬ間際「村中の非モテ、童貞の筆おろしをさせてあげなさい」という、今訊けばもうめちゃくちゃな遺言を受けていたところに出くわし、ぬか喜びする。ようやく童貞が捨てられると。


しかし、ふたを開けてみれば、彼女は他の童貞とはセックスにつきあってやるものの、不潔な利助だけはなんと「あんただけはごめんだよ」拒まれてしまうのだ。それを訊いた利助は怒りと悲しみで、外に出て気が狂ったように暴れ回る。


見かねた彼の兄、緒方拳演じる辰平が、おえんに再度頼み込むその理由がすごい。
彼は、利助がこのままだ女を抱けないままだと、それが原因でムラで何かめちゃくちゃなことをしてかすかもしれないから、ムラのためにセックスにつきあってくれと、おえんに頼みこんだのだ。


たしか、非モテが原因でめちゃくちゃなことした人、約一ヶ月前にいましたよね?
この映画はそのように、非モテであるということは、かつての共同体においてもリスクファクターになりえたということを教えてくれる。


この映画を見終えたときの感慨は、カフカの「城」を読んだときのそれにも似ている。
優れた映画や、文学というのはこのように、きわめて具象的な舞台で、きわめて普遍的な問題を捉えているものだと思う。