いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

孤独の板挟み


fujiponさんの記事

「自分の周りには誰もわかってくれる人がいない」という孤独と、「どこかにわかってくれる人がいる」と信じて投げたボールがどこからも返ってこない現実を突きつけられる孤独。後者は、たぶん、インターネット時代になってはじめて、「普通の人」たちも直面することになった「新たな孤独」だ。


インターネットの世界は、僕たちが地に足を付けて実生活を営んでいる現実社会とは、もはや別種の「社会」を築いている。そしてその新たな社会は、きわめて接続可能性の高い社会だ。例えば、僕たちはネット社会では、見ず知らずの赤の他人と突然接触することになる。年齢も、性別もわからない人と、突然対話が始まることだってある。


実生活を営む社会で、その日まで見ず知らずだった赤の他人と、いきなり接続してやりとりするなんて普通はありえないことだ。それが可能なのは一つに技術的な側面もあるけど、それ以上に重要なのは、ネットでのコミュニケーションには、僕らが日々煩わしく思う対人的側面が極力排除されているということだ。
だから、ネット上では誰もがコミュニケーティブになれる(ネットで人見知りする人はまずいない)。


反面、現実社会のほうが、僕らには孤独だったりもする。赤の他人とは接続しにくいから。


では、現実社会で味わう孤独と、ネット社会で味わう孤独、つまり鴻上尚史が言うところの「数字によって冷酷に知らされる孤独」、「コメント(0)の孤独」は、本質的に何が違うのだろう。
それは孤独の「質」だろう。
現実社会における孤独はアナログ的で、自分が孤独なのか孤独でないのか、わかりづらいという側面がある。
「もしかして、俺は孤独ではないかも!?」と夢想できる余地が残されている孤独だ。たしかに現実社会の方が孤独と親和性が高いことはあるけれどその分、自分が孤独であるということがわかりにくい仕組みでもある。


また、現実社会では孤独でない人間だって「孤独感」を感じることがある。
仲のいいヤツと楽しく飲み明かしたって、いづれはみんな自宅に帰っていく。友人が帰った後に、家飲みしたビール缶とかを片付るときほどに孤独を感じることはない。実際には孤独でなくたって、このように現実社会には孤独がころころ転がっている。だから変な話だけど、誰にだって孤独はアナログ的に「配分」される仕組みになってる。


現実社会では、そこがある種の孤独の緩衝材の部分だった。
けれど、ネット社会における「コメント0」「ページビュー0」というデジタル的に示されるそれは、まさにALL or Nothing。ずばり、あなたは孤独だと診断されるのだ。そこのつらさがある。

おまけに、ネット社会のそのデジタルな孤独というのは、大抵はディスプレイに相対して、たった一人で受け止めなければならない。(その人が「コメント0」とか「ページビュー0」であるのを知っている人が他にもいるなら、まだそれは完全な孤独ではないのだから。)

インターネット社会の到来によって「新しい孤独」が生まれたとして、それ自体が問題なのではないかもしれない。
孤独は時に必要だったりする。人との接触を絶して、想像力を育むことにだって人間的な資質を高めるための効用があるはずだ。ニーチェだって「若いときにモテたヤツの想像力はイヌ以下だ」と言ってるし。
それに、「コメント0」に直面したとき、もっとおもしろい記事を書いてやるという、モチベーションにもなるかもしれない。それに、いざとなったら画面を消して、家をでて現実社会へ逃避すればいいんだ。


でも、「ネットの外」でもコミュニケートできる他者がいなかったら・・・。
だから、本当につらくなってくるのは、現実でもネットでも居場所がない人が、「二乗の孤独」にさいなまれる状況なのかもしれない。