いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

今年も“じゃない方会社員”で生き延びたい

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もうそろそろ2年前になるだろうか。かつて『水曜日のダウンタウン』で「なにやら占い師に傾倒し始めた相方が改名を訴えてきても応じられない説」が検証された。

ドッキリで、コンビの片方が相方に対して、メチャクチャな芸名やコンビ名の改称を提案する様子をモニタリングする内容で、その中に野性爆弾が登場した。

仕掛け人のくっきー!が自分の芸名を「相原YOU」、コンビ名を「飛ぶ人間(ピーターパン)」、さらにロッシー自身の芸名も「しそうのう郎」に改名したいと提案。野性爆弾といえば、芸歴は20年を有に超えるベテランである。ロッシーの芸名にもそれなりに歴史がある。ところが、この全ての提案をロッシーは「全然いいよな」などとほぼ二つ返事であっさりOKしたのだ。この様子が、当時ネット上では「くっきー!より怖い」「狂気」などと話題になっていた。

 

そのとき、ぼくはぼく自身に対して、ほかの視聴者とは全く別の意味で衝撃を受けていた。なぜなら、みなが「怖い」「狂気」と言っていたロッシーの反応が、ぼくにとっては「すごい分かる」「たぶん俺もこういう反応する」と共感できてしまったのだ。

このとき、自分の「じゃない方」属性を直感した記憶がある。ロッシーといえば、紛うことなき「じゃない方」芸人だろう。鬼才・くっきー!がお笑いの分野を超えて多才を発揮する一方、幼稚園からの幼なじみにして相方のロッシーは常に受け身で、何かを自発的に発表する瞬間は、少なくともテレビ画面上では目撃できない。千原ジュニアをして「爆弾がくっきー!、野性はロッシー」と言わしめたように、その芸歴のほとんどをその天性の天然属性で乗り切ってきた男である。おそらく、芸名やコンビ名についても、「くっきー!が替えたいのなら替えよう」ぐらいだったのだと思う。

 

この「変えたいという意思がある人がいるなら、それに従おう」。その感覚が、ぼくはとてもよく分かるのだ。なぜなら、ぼく自身も会社では「じゃない方会社員」だからだ。

自分から自発的に企画を立てない、やれと言われたらやる。自分の担当する業務についても、責任は取るけどそこまでこだわりはない。上司に「こういう風にしたほうがいいんじゃない?」と言われたら、「あ、そうですかね。じゃあそうしましょう」と二つ返事で了承してしまう。それは、上司と意見が対立したくないとかではなく、本当にそこに意思がないからだ。ほら、ロッシーではないか。

もしぼくがお笑い芸人だったとして、相方からぼく自身の芸名変更と新しい芸名を提案されたら、「全然いいよ」と了承してしまうと思う。そこに意思がないからだ。意思がないなら、意思がある人の意見に従うまでなのだ。

 

しかし、こうした「じゃない方会社員」として自分が始末に終えないと感じるのは、自分のことを「会社のお荷物、厄介者」とは露ほども自戒していないところだ。

こうした厚顔無恥な自意識の誕生にも、お笑い芸人が関係する。

以前、ハライチの岩井勇気が『あちこちオードリー』で、ネタを書いていない相方の澤部佑に対して抱いていた不満と折り合いをつけるため「俺の本当のやりたいことに、ギャラを半分あげて来てもらっている人」と思うようになった、と話していた。

www.tv-tokyo.co.jp

澤部は厳密には「じゃない方」芸人とは言えないほど売れに売れきっているし、どちらかといえば、少し前の岩井の方が「じゃない方」に片足突っ込んでいたぐらいだったが、ネタについては岩井が完全な頭脳で、澤部は「じゃない方」になるといっていいだろうを

岩井のこの言葉を聞いたときに、膝を打つ思いがした。そうなのだ、「じゃない方」は不必要な存在などではない。ぼくのような「じゃない方会社員」がいなければ、会社の業務は回らない。ぼくも社長や上司からしたら「俺の本当のやりたいことに、ギャラを半分あげて来てもらっている人」なのだ。岩井が、ネタを書く方/書かない方の不平等への不満に折り合いをつけるために編み出した考え方が、全く関係ないぼくに刺さった瞬間だった。

 

よく、「0から1を生み出す人」「1から10を生み出す人」「10から100を生み出す人」という言い方がある。ぼくの意識では「じゃない方会社員」はそのどれにも当てはまらない。さすがに「10から100を生み出す人」ぐらいはやっているのでは?という人もいるかもしれないが、その人はまだ「じゃない方」会社員として徹底できていない。真の「じゃない方」会社員はときに「56から61を生み出す人」になれば、ときに「45から29を生み出す人」にもなる。たまには足手まといにもなる。たまにね。

 

ここまで読んで、こいつは人生を、社会をなめきっていると感じた人。あなたは正解である。無論、ぼくは人生をなめきっているが、この「じゃない方会社員」であることが安泰であるとまでは思わない。いずれバレるかもしれない。いつか来るかもしれないその日まで、息を潜めて、「じゃない方会社員」として今年も生き延びたい。

【今年公開&配信198本】2021年度映画総合ランキング ※お詫びあり

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恒例の年間映画ランキングのお時間です。

今年は668本鑑賞し、日本公開、配信は198本でした。

198本の中からランキングを決めます。もう10本では収まりきらんということで、すでに邦画、洋画、配信に決めました。

タイトルにあるとおり、数本、「これは入れないとあかんだろ」という作品をすっかり忘れてしまっておりまして、そちらもお詫びにかえて追記しております。

では行ってみましょう!

※シン・エヴァクレしんの天カス学園を忘れていました。

※新スーサイド・スクワッド、ロンを忘れていました。

 

これを踏まえて、年間総合ランキングです。

(1)マリグナント 狂暴な悪夢

(2)ラストナイト・イン・ソーホー

(3)浅草キッド

(4)ヤクザと家族

(5)すばらしき世界

(6)21ブリッジ

(7)由宇子の天秤

(8)レッド・ノーティス

(9)フリー・ガイ

(10)ブラック・ウィドウ

 

今年は以上!

来年もたくさん良い映画に出会えるといいな!

『明け方の若者たち』が悪いんじゃない。ぜーんぶ今年の邦画たちが悪いっ!

映画チラシ『明け方の若者たち』5枚セット+おまけ最新映画チラシ3枚 

今年2021年は、東京の井の頭線沿線や中央線沿線の下北沢や明大前、高円寺といった若者に人気のエリアが印象的な役割を果たす邦画が多く誕生した。そんな今日、大晦日に名実ともに今年を締め括る形で公開される映画が『明け方の若者たち』だ。

www.youtube.com

東京・明大前で開かれた学生最後の飲み会で出会い、意気投合し、交際することになった「僕」(北村匠海)と「彼女」(黒島結菜)の2012年から始まる約5年の軌跡を描く。

 

本作の不幸は、東京を舞台にカップルの悲喜こもごもの数年を描く、という形式から、嫌が応にも『花束みたいな恋をした』を連想されてしまうこと。残念ながら、あの映画に比べると、会話の強度が全く足りない。どちらかといえばテレビドラマチックな1から10まで説明する脚本が、執拗に俺の集中力を削いでくる。うーん、辛い。

鑑賞者の記憶をゾワゾワなぞってくるような生々しさもなければ、考えさせられるような現実的な葛藤もない。そこにあるのは、そこそこ恵まれ、おセンチに気取った男女のなんでもない日常である。実写版大学生のきしょいストーリーかよ。気の抜けたコーラのような映画だ。そうか、こういうときに人は「気の抜けたコーラ」という言い回しを使いたくなるのか。

 

特に前半は、2人にとっての障害もなければ目標もない(描かれない)ので、何を見せられているんだと困惑させられる。もしかして俺は何か重要なシーンの前に後ろから誰かに殴られ気絶していたのだろうか? 大切なシーンを見過ごしたのか? と不安になってくる。

中盤で2人はフジロックに行くのを取りやめ、車で当て所もなく旅行をすることになるが、当て所もない旅路に連れていかれているのは俺たち観客の方である。まさかこのヤマなしオチなしで2時間突っ走るのか…という心配はさすがに杞憂に終わり、途中でちょっとした種明かしがなされ、トーンは少し変わるのだが…。その後の展開が劇的に面白くなるわけではない。それにしても、この仕掛け(というほど大したものでもない)のために、前半の面白さを犠牲にし過ぎではないか、とも思った。

 

ただ、ここまで悪いことしか書いていないように思われるだろうが、いや実際悪いことしか書いていないのだが、ただ一点、北村匠海のファンや、黒島結菜のファンはこれで満足できるのかもしれない。彼らが悪いわけではないし、この映画が悪いわけでもない。ぼくをもうこの程度では満足できない体にしてしまった、今年の強すぎる邦画の数々が悪いのだ。

人口900万人に救急車わずか45台のメキシコシティで活躍する“闇救急車”の実態 『ミッドナイト・ファミリー』

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世界は広い。まだまだ知らないことがたくさんある。ドキュメンタリー映画を観る醍醐味は、自分の全く知らない時間・場所に連れて行ってくれるところにある。『ミッドナイト・ファミリー』もそんなドキュメンタリーの醍醐味が凝縮した一作といえる。

この映画の舞台はメキシコシティ。この都市には人口約900万人にあたり、救急車の数がわずか45台に満たないという。ためしに東京都で調べると人口1400万人あたりに救急車が236台。1台あたり6万人で、これはこれで少ないように思えるのだが、メキシコシティは1台あたり20万人なので、よりひっ迫していると分かる。

そんな救急車不足のメキシコシティで何が起きているかというと、違法な状態で運営する民営の救急車が活躍しているという。本作が密着するのは、そんな「闇救急車」を営むオチョア一家と、そこから見える、日本に住んでいるとおよそ想像しがたいメキシコシティの救急医療体制の実態だ。

闇救急車はその働き方からして興味深い。闇なのだから当然待っていても出動要請がかかるわけではない。本作が密着するオチョア一家も、夜毎救急車で市内を流している。それはさながらタクシーのようだ。まだ小さな末っ子が、ビュンビュン飛ばす救急車の車内や、重傷を負った負傷者を見ても顔色ひとつ変えないのは、もはや慣れっこになっているからだろう。彼もいずれ「家業」を継ぐのだろうか。

事故や事件の情報を聞きつけると、サイレンを鳴らして現場へ急行するオチョア一家。ここで面白いのは、市街には他の闇救急車も流しており、客(=負傷者)を乗せられるかは結局早い者勝ちということだ。映画はその状況が引き起こす、世にも珍しい「救急車同士のカーチェイス」を活写する。密着のカメラが救急車の車内から捉えた、けたたましいサイレンとともに別の救急車を追い抜くさまは迫力満点だが、同時にこんなことをすればまた別の事故を起こして負傷者を増やすだけでは? と不謹慎にも笑えてきてしまう。

負傷者をピックアップしたあとは公営の救急車と同様に病院に運ぶわけだが、たとえ病院についたところで料金を払ってもらえるかは分からない。別にピックアップする際に契約を結んだわけではないのだ。現に劇中、オチョア一家は負傷者やその家族から料金を踏み倒される様子が何度も何度も描かれる。しかし、払えよと負傷者に強く出ることはできない。もともと闇救急車自体に違法性があり、警察を呼ばれたら最後。彼らはとても弱い立場なのだ。

こうした状況のため、救急搬送を何度したところでなかなか稼ぎが稼げない一家は、火の車である。そんなに大変なら転職したほうがいいのでは? と思うのだが、彼らには彼らで事情があるのだろうか。

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苛烈を極める救命医療の現場、過酷なオチョア一家の家計事情、そしてそんな内容に関わらず、赤と青のあざやかなサイレンに照らされた美しいメキシコシティの夜景のギャップも印象的な本作。オチョア一家が救命医療に急行する現場が何度も映されるが本作だが、負傷者のことはあまり直接的には映さない。主役はあくまでオチョア一家で、足掛け4年密着した監督のカメラだからこそ、これらの飾らない素顔を魅力の一つだ。

「事件や事故が起きたら(公的な)救急車が勝手に来るもの」という常識を持つ者は打ちのめされる一作となるだろう。

『ラストナイト・イン・ソーホー』で連想した5本の作品<微量のネタバレが含まれます>

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今年の大傑作の1本といえばエドガー・ライト監督の『ラストナイト・イン・ソーホー』だ。映画とその歴史に対して常に批評的な姿勢をとり続けるライト監督であるからして、もちろん本作にもさまざまな過去作の引用、パロディが隠されているが、それらとは別に、本作にはさまざまなイマジネーションが隠されている。本稿は、本作から派生して連想した作品5本を、関連付けながら紹介したい。

ベイビー・ドライバー

ベイビー・ドライバー (字幕版)

まず紹介したいのは、エドガー・ライト監督による前々作『ベイビー・ドライバー』。

同作と『ラストナイト~』は、どちらも主人公がイヤホン/ヘッドホンを使って四六時中音楽を聴いている点が共通だが、その深層の意味も似ている。『ベイビー~』の主人公がイヤホンを手放さないのは鳴り止まない耳鳴りを遮るためだが、その深層には母亡き世界を直視できない彼の弱さがある。生前の母が口ずさんでいたおなじみのオールディーズを流し続けるイヤホンは、”胎教”が流れる胎盤の役割を果たす。

一方、『ラストナイト~』では、主人公エロイーズがbeatsのヘッドホンで憧れの60年代の音楽に聴き入っている。彼女もベイビーと同様、慣れない大都会ロンドンでの生活や気の合わないルームメイトから逃避するように、60年代に鼓膜を通して耽溺する。

ミッドナイト・イン・パリ

ミッドナイト・イン・パリ(字幕版)

ウディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』と『ラストナイト~』をつなぐのは、「過去への憧れ」だ。

同作は、俗物的な婚約者&その両親と共に、憧れのパリに旅行にやってきた脚本がなかなか書けない脚本家志望のギルが主人公。そんな彼がなぜか真夜中だけ、世界的な芸術家で賑わう、彼が愛してやまない1920年のパリの夜にタイムスリップしてしまう、というロマンチック・コメディだ。

『ラストナイト〜』が過去を糾弾するのに対して、本作の「結局、どの時代の人だって『昔は良かった』と思いがち」というシニカルなオチは、ウディ・アレン風味といえる。

ザ・コール

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過去と現在、2人の女性をつなぐ作品で思い出す名作が、韓国のSFホラー(と呼んでいい???)映画『ザ・コール』だ。

同じ洋館に住んでいた2人の女性をつなぐ一本の電話。最初は分かりあえそうになっていた2人が、離反していく切ない展開は『ラストナイト~』に通じる。過去の者は未来の者には防げない方法で、未来の者は過去の者には知り得ない情報で、時を越えて相手を出し抜こうとするバトル展開がスリリングだった。

アンテベラム

映画チラシ『アンテベラム』5枚セット+おまけ最新映画チラシ3枚 

『アンテベラム』もまた、奴隷制時代に虐げられた女性と、リベラルな現代社会で活躍する女性という、対局にあるように思える2人の女性が共鳴する作品だが、その共鳴の仕方は『ラストナイト~』に比べるととてつもなく奇妙だ。

それは、2人の女性をジャネール・モネイが一人で演じ分けていることに起因する。本作における現在と過去は独立しては存在しない。2つの時代はまるで混ざり合うように、ねじれ合うように関連していく。昔パートの出来事が、現代パートの女性が見る夢のように推測もできるが、ラストシーンを観たあとでは単純にそうとも言い切れない。本作はそうした「分かりやすい解釈」を拒絶してくる。

iincho.hatenablog.com

クイーンズ・ギャンビット

クイーンズ・ギャンビット(新潮文庫)

『ラストナイト~』で主人公エロイーズが夢の中で出会う60年代のシンガー志望の女性、サンディを演じたアニヤ・テイラー=ジョイ。ネットフリックスのドラマ『クイーンズ・ギャンビット』にハマった人なら、彼女が画面に出てきた瞬間、あの意思が強そうな瞳で「ベスだ!」と気づいたはず。

興味深いのは、エロイーズが憧れ、サンディが登場するのが60年代のロンドンであるのと同様、ベスがチェスのプレイヤーとして活躍するのも60年代のアメリカだということ。エロイーズとベスは同時代の人間だったのだ。

そう考えると、『クイーンズ~』で男であろうとバッタバッタとチェスで倒していくベスの活躍は、同時代に男に夢を壊されたエロイーズの敵を討っているかのように思えてくるから不思議だ。

 
 
 
 
 
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苦労人・錦鯉に優勝もたらした『M-1』の気まぐれな“女神” 相反する2つの要素

 

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M-1グランプリ2021』王者・錦鯉

50代と40代のコンビの優勝という劇的な結末で幕を閉じた『M-1グランプリ2021』。

マヂカルラブリー優勝という驚がくの答えを出した昨年も偉そうに分析していたのだが、このとき書いた傾向は今年も継続し、より深化しているように感じる。

iincho.hatenablog.com

“終身名誉優勝候補”和牛が卒業した後の『M-1』は確実に、王者の漫才に文脈、つまり出場者固有の「生き様」や「ドラマ」、「物語」といった属人的な要素を欲する傾向にある。

 

今大会で審査員席に座ったナイツの塙宣之はかつて、その著書『言い訳』(集英社)で「よくできたネタ」の定義を下記のように述べていた。

 ちゃんとしたネタとは何かというのも難しいところですが、一つの定義として『他の人でも演じることができるネタ』と言うことはできるかもしれません。

 ハゲネタは、ハゲの人しかできません。チュートリアルの徳井(義実)さんやキングコングの西野君は、モテないネタはできません。だから、自虐ネタはフリートークだと言いたいのです。

 僕らは東京の寄席に毎日のように出演しています。東京の寄席は落語がメインなので、落語からも多くのことを学びました。

 落語家は同じ演目をいろんな人が演じます。それは話がよくできているからです。それをネタと言うのだと思います。

 もっとわかりやすい例で言うと、親が子どもに読み聞かせるような日本昔話もネタだと思います。話が完成しているので、誰が読み聞かせても子どもは喜びます。

 フリートークの時間に『桃太郎』の話をする人はいません。ネタとはそういうものです。漫才でも、桃太郎のようなよくできたネタを考えるべきなのです。

—『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか (集英社新書)』塙宣之, 中村計著

では、今回優勝した錦鯉のネタはどうだろう。たとえば、20代の若手漫才師が彼らのネタをそっくりそのままかけてウケるとは考えにくい。第一、ネタの設定が50代の時点でつじつまが合わなくなってしまう。

そう考えると、塙がここでつづっている意味では、錦鯉のネタは「よくできたネタ」とは言えないかもしれない。そんな彼らが今回『M-1』を獲ったのだ。

 

しかし、ここでいいたいのは塙による定義が間違っているということでも、今回の『M-1』のレベルが低い、ということでもない。

「誰でも真似できるネタ」はたしかに塙のいうように古典落語のごとく時代を超えて受け継がれていくネタなのだろう。しかし、近年の『M-1』という舞台に限っては、その上に「ドラマ」「生き様」といった文脈を欲する傾向がある、ということだ。ネタのクオリティだけで優勝が決まるのが漫才ではない。それは、『M-1』が『N-1(ネター1)』でないゆえんだ。

 

また錦鯉が優勝したことは、今回の『M-1』で漫才の技術やネタの構成力が軽視されている、ということを意味しているわけではない。決勝10組の漫才が技術的、構成力的に高水準で伯仲しているからこそ、演じている人の「生き様」や「ドラマ」という要素が、「あとひと押し」となるのではないだろうか。

あの支離滅裂に見えたランジャタイのネタでさえ、ネタ中で一度出た「将棋ロボ」のくだりを後半でもう一度なぞってより大きな笑いを誘う。ネタ全体の構成がまったくのデタラメでは、決勝の舞台には上がれないということがよく分かる。

 

漫才師の「生き様」や「ドラマ」という属人的な文脈を欲する近年の『M-1』は、錦鯉のように苦節うん十年の苦労人漫才師に優しいように思えるが、それだけではない。この大会には、もう一つ、相反するような特徴が備わっている。

突然だが、下記が近年の『M-1』優勝コンビの出場回数だ。

2015年 トレンディエンジェル(決勝初進出 ※敗者復活枠から)

2016年 銀シャリ(決勝3回目 ※新生『M-1』では2回目)

2017年 とろサーモン(決勝初進出)

2018年 霜降り明星(決勝初進出)

2019年 ミルクボーイ(決勝初進出)

2020年 マヂカルラブリー(決勝2回目)

2021年 錦鯉(決勝2回目)

 

今年の錦鯉を入れて7大会の優勝コンビ中、4組が初進出でそのまま優勝。それ以外の3組も初進出から3回目までには優勝を果たしている。

さらに旧『M-1』(2001~2010年)までさかのぼってみても、優勝10組中5組が初出場で優勝し、4組が2回から3回目の決勝進出で優勝を果たしている。笑い飯の「9回出場して9度目で優勝」というのは、異例中の異例だ。

つまり、結成15年目まで出場可能な現行の『M-1』だが、優勝に限って言えば、「遅くても3回目まで」には決めなければ、漫才の女神は微笑んでくれないということになる。女神の後ろ髪はそんなに長くないのだ。

 

本稿の前半で書いてきたように、漫才師の「生き様」や「ドラマ」という属人的な要素をも込みで評価される傾向があるのが近年の『M-1』だ。しかし一方で、どれだけ苦節を重ねて何度も挑戦して、固有の「生き様」「ドラマ」を見せすぎても、漫才の女神にはそっぽを向かれてしまう。女神は飽き性なのだろうか。

この相反するように見える2つの要素が、来年以降の『M-1』でどんなドラマを巻き起こすのか。今から楽しみで仕方ない。

『水曜日のダウンタウン』“双子芸能人”の説 なぜ「怖い」と感じるのか

シャイニング 双子 フィギュア

先日、『テレビ千鳥』が優しさで巧妙に隠した悪意について書いた。

iincho.hatenablog.com

一方、“悪意”の表出とそのバリエーションにおいては、当代一と言われる『水曜日のダウンタウン』の15日放送回「ザ・たっちにもピンの仕事あるにはある説」もすごかった。

tver.jp

双子芸能人にピンでの需要はあるのか? という検証で、「幽体離脱ぅ~」でおなじみのたくやとかずやの双子からなるザ・たっちをはじめとする双子芸人、双子芸能人のピンの仕事の有無を検証。VTRの最中には、ザ・たっち2人がインタビューに答える模様も映された。

そして、双子の芸能人も実は意外とピンの仕事をしていた、というあまりトゲのない結論に落ち着きかけたところ、VTRの最後の最後に予想外の展開が待っていた。それは、ザ・たっちでインタビューを受けていたのは片方のたくやだけだったということ。番組は、たくやが一通り自分の受け答えするシーンを撮り終えた後、相方・かずやのいる“はず”の席に座り、かずやのフリをして質問に答えようとしているシーンを映していた。

つまり、ザ・たっちが2人でインタビューを受けているように見えた映像は、たくや一人を映して作った合成だったのだ。

 

「双子芸人にピンの仕事があるのか?」という検証VTR自体が、実は双子芸人のピン仕事だった、というきれいなオチが付いたように見えるが、スタジオの面々からは「怖い」という声が漏れていたし、SNSでも同様のコメントが多数寄せられていた。この説のオチは「怖い」のだ。

 

では、なぜ怖いのだろう。それはこの説の悪意が、ザ・たっちでも双子タレントでもなく、われわれ視聴者の側に向けられているからだ。

この説は、双子芸能人というものの存在価値をめぐる説であることは言うまでもない。まず、説のタイトルだ。「ザ・たっちにもピンの仕事あるにはある説」。「あるにはある」という表現が醸し出すように、この説には、番組側による双子芸能人に対しての「双子は似ている人間が2人そろってナンボで、2人そろってはじめて“商品価値”が生まれる」という、ある種の悪意がうっすら含まれているように思える。

しかし、説を検証していくと、実際はそんなことでもない、ということに気付かされる。双子は2人そろってなくてもそこそこ仕事はあるのだ。実際、双子芸人の漫才でも、双子をネタにしているコンビばかりではない。番組で紹介されたDr.ハインリッヒの漫才はほとんど自分たちのアイデンティティに関係ない唯一無二の世界観を演じいるし、昨年の『M-1グランプリ』敗者復活戦でダイタクが見せたネタは、ありがちな双子ネタの導入のフリをして、もっとクセが強い両親の話に延々と回帰してしまう、という双子であることを逆手に取ったネタだった。双子だからといって「双子であること」だけが商品価値ではない。

 

番組側が悪意を向けていた相手が「双子芸人」だったなら、「ピンの仕事があるにはあった」という結論は、おもしろくないもののように思える。

しかし、そこにきて番組が用意したのが「たくやが一人でザ・たっちを演じていた」というオチだ。

たくや一人でザ・たっちが演じても、そのことに気づく視聴者はほとんどいなかった。

 

そのことを意味するのは、たくやとかずや、それぞれに固有のアイデンティティがある人間であることを無意識のうちに忘れ、記号的に「同じ顔のニコイチの人間たち」というふうに解釈していたのは、番組側ではなく、実はわれわれの側だったということだ。

この説のオチで視聴者が「怖い」という感情を催すとすれば、それは「双子芸能人の価値を軽んじているのは、実はあなた自身なんだよ」と、自分は単なる傍観者だと油断して見ていたところで指をさされたからだ。

視聴者側が向き合いたくない“自分の嫌な部分”に、強制的に向き合わざるを得なくする悪意。つくづくこの番組は始末に負えない。