いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

眠れない!辛い!超わかる!全人類共感型の恐怖のパニック映画が爆誕

f:id:usukeimada:20210626234604j:image

フィクションでは空腹、喉の乾きといった「渇望」の表現は、今まで無数に描かれてきた。しかし、空腹や喉の乾きと同じぐらいぼくらの身の回りにあるにも関わらず、あまり深くは描かれてこなかった「渇望」のジャンルがある。それは「眠り」である。

 

本作『AWAKE/アウェイク』はその名のとおり、全人類が突如として「眠たいのに眠れなくなる」、という奇想天外なアイデアのSFスリラー。その中で、主人公のシングルマザーの娘だけは、なぜか眠れるという。全人類的不眠症の謎を解決するため、主人公は娘を拠点(ハブ)まで連れて行く冒険を選ぶ。

 

この設定の妙は、「すぐにはパニックが訪れない」ということ。モンスターや大津波のように、わーわーみんなが逃げ惑うわけではない。すぐに誰かが死ぬわけでもない。しかし、「眠りたいのに眠れない」という恐怖は、静かにでも確実に迫ってくる。一晩たってから、人々は徐々に徐々に異常をきたしていく。

 

冒頭で書いたように、空腹、喉の乾きと同じぐらい「眠たい」ことの辛さは誰にだって分かる。だから、3日、4日、5日と経過してからの主人公たちが青白くなり、朦朧とした姿は、めちゃくちゃ分かるし、だからこそ怖くなってくる。

 

もっとも、この映画について正直なところ、ネット上での評判は芳しくない。主に、「眠れなくなった理由が納得できない」とか「終わり方が微妙」といった声だ。

 

しかし、ぼくはそうした理由や結末の拙さ、物足りなさより、そこへ行くまでのプロセスにおいて大いに楽しませてもらった。本作はいわば「人類が眠れなくなったら何日でぶっ壊れるか」というシミュレーションだ。作中では、人間は眠らないでいると脳が腫れて膨張していき、判断力を失い、約1週間で二度と目を覚まさなくなるという。すなわち死だ。つまり、人類にとって「眠れない」というのは時限式爆弾みたいなもんなのだ。

 

拠点へと主人公たちが迫るにつれて、さまざまな「眠たすぎて狂った人々」と出くわす。その「眠れなくておかしくなった人々」バリエーションも観ていて楽しい。主人公たちの乗った車が、眠れない民衆に囲まれて立ち往生する場面がある。そのシーンで気づいた。それはまるでゾンビ映画の光景なのだ。そのとき、もしかしてこの映画は2徹、3徹した人がゾンビみたいに見えたところから着想を得たのではないか、と勘ぐってみたり。

 

クライマックスにかけては、もはや患者から医者まで全員感染者のパンデミック映画のような様相を呈していく。この手の映画にはお約束の狂乱や、眠れるようになる意外な方法など、終盤にたたみかける展開も飽きさせない。「眠たいのに眠れない」、ただそれだけできついということを本作で痛感すれば、夜ふかしをする人も減るかも?

 

“上メセ”リベラリストが保守的な田舎にやって来た! 映画『ザ・プロム』が描く手厳しい視点

f:id:usukeimada:20210621214826j:plain

 

2016年の大統領選において、ヒラリーが“差別主義者”トランプに敗れたのは、アメリカのリベラル派にとってトラウマ的な事象だと思われるのだが、ネットフリックスで配信中のミュージカル映画『ザ・プロム』はその視点もきちんと取り入れているところが関心させられる。

ブロードウェイの落ち目スター、ディーディー(メリル・ストリープ)と、バリー(ジェームズ・コーデン)、2人が主演したフランクリンとエレノア・ルーズベルト夫妻を描いた新作舞台はこてんぱんに酷評され、キャリアの危機に。そんなとき、中西部インディアナ州のとある高校で、同性愛者の生徒がプロム(高校で学年の最後に行われるダンスパーティ)に参加するのを保守的なPTAが反対。プロム自体が中止になるというニュースが飛び込んでいくる。

 エマというレズビアンの少女を助けなくては。ディーディーとバリーは仲間のアンジーニコール・キッドマン)、トレントを巻き込み、勢い込んで急きょ、エマに加勢するためインディアナ州に乗り込むのだった。

 

PTA集会が開かれている体育館に、誰に呼ばれるでもなく無断で入ってくるディーディーたち。いかにもなレインボーのプラカードを引っさげ、エマを差別するな、彼女も含めてプロムを開催しなさい、とディーディーは訴える。

 

ディーディーの主張は一見まっとうであるのだが、根底には、「私のような先進的な都会のリベラリストが、無知蒙昧で差別的な田舎者たちを“啓蒙”しに来てやったぞ」という“上から目線”がどうしても透けて見えてしまう。そのうえ、ディーディーには、エマを支持することで、本業のミュージカルでの失地回復を狙う、というきわめて自分本位で、打算的な狙いがある。

そう、日本人が大好きな言葉、BA★I★ME★Iである。

 

メリル・ストリープ演じるディーディーの、観ているこちらがヒヤヒヤさせられるほど戯画化された主人公の“エセリベラル感”は見事。当然、自分勝手で、口には出さないが透けて見える田舎に対する軽蔑心を含んだディーディーの言葉が、人々の心に響くはずはなかった。

 

原作のミュージカルは、初演が2016年8月で、この年の大統領選の結果を待たずして上演されたことになるが、この展開のとおりに歴史は動いてしまったことになる。リベラル派の言葉はトランプ支持者に響かなかったのだ。

劇中では、州検事の圧力によって、プロムは無理やり開催されることにはなったが、しかしそれは最悪な形の「分断」を作り出すことになってしまう。

 

もちろん、本作が描きたいのは「反動」などでなく、あくまでエマに寄り添う。ここで、本作は都会のリベラリスト/田舎の保守主義者、とはまた別の二項対立を立ち上げる。それは、マスメディア/ソーシャルメディアである。

 

新たなプロムをエマたちが開催することになった。それを告知するため、ディーディーは元夫のツテを借り、エマをテレビ番組に出演させることを画策する。しかし、これをエマは固辞。エマはあくまでも、自分の方法にこだわりたいという。エマは気づいているのだ。マスメディアという媒介を解することで、自分の本当にいいたかったことはどんどん歪曲されていく、と。

インターネットを通して、エマが自分のようにセクシュアリティで悩んでいる人々に語りかけるように歌う弾き語りの曲は涙を誘う。

 

紆余曲折を経て、ディーディーは改心するし、エマも恋人と結ばれ大団円であるが、ここまで読んでくれていた人が忘れてしまいそうなので一応もう一度言っておくが、この映画はミュージカルである。

 

メリル・ストリープ、ジェームズ・コーデン(ケータイショップ店員からオペラ歌手に転身した“シンデレラ・ボーイ”ポール・ポッツを演じたこともある)らが歌い踊る歌曲全てが高水準で、観ているだけで楽しくなってくる。

決して上記のような「意味」と「主張」だけが充満した堅苦しい映画でないので、ぜひ観てみてもほしい。

性教育はテキトーだけどセックスはしてOK 日本の中学生をめぐる大いなる矛盾

f:id:usukeimada:20210609145508j:plain

 

現行13歳となっている日本での性交同意年齢の引き上げをめぐる議論が、ネット上でホットになっている。

そもそもは、立憲民主党議員のおじさんが会議で「50歳近くの自分が14歳の子と性交したら例え同意があっても捕まるというのはおかしい」と発言したことを端を発している。

このおじさんの勇気ある暴言がなかったならば、ここまで議論が活発化していなかったかもしれないわけで、彼にはある意味感謝すべきなのだが、このおじさんの発言にあまりこだわりすぎて石を投げていても有益ではないし、問題の本質を見誤りすぎる気がする。

 

性交同意年齢を引き上げるか否かは、さまざまな論点が複雑に絡み合っている。

やれ引き上げなくたって多くの自治体は条例でカバーできているという意見(そもそも、50歳近くのおじさんは14歳の子と性交したら現時点で大抵はタイーホという信頼と実績なのだ)や、やれ中学生同士でも逮捕されるのかという指摘(日本よりは年齢を上に設定している諸外国はそうした場合の例外規定がある模様)など、いろいろな角度から議論が巻き起こっている。

 

そんな中、パターナリズムへの批判として、引き上げに反対している人たちがいる。

彼らの言い分をざっとまとめるとこうだ。子どもにだって物事を考え、判断する意思があり、親たちの所有物ではない。彼らにも自己決定の権利がある、というやつだ。

 

そういう人は、喫煙に飲酒、ギャンブルに投票、運転もできない今の子どもたちの憂うべき現状をどうとらえているのだろう、とは思うけど、それはともかく、彼らの言い草を鵜呑みにして「13歳の自由意志」を認めた上で、改善すべきことがあると思うのだ。それは日本の性教育だ。

 

このあいだ、たまたま見た『首都圏情報ネタドリ!』というEテレの番組で知って、安西先生ばりに「(俺が子どもの頃から)まるで成長していない…」と、現在の性教育事情にがく然とした。

その番組では、大学や高校で20年以上性教育に携わっている水野哲夫さんという人が出ていて、下記のように明かしていた。

文科省は今、“性教育”という言葉も使っていない。性に関する指導という言葉を使っています。何が違うかというかというとカリキュラムを作らなくていいんです。指導だから。個別指導でもいい体系的なカリキュラムを作らなくていい

 

だから、性教育は保健体育の授業に格納されたままなのだ。水野さんによると、現在、全国の中学校において、年間で性教育で割く時間は平均でたった3時間ほどなんだという。

日本の性教育が諸外国に比べて遅れているのは、すでに何年も前から言われている。今回、あらためて自分で調べてみると、日本の学習指導要領では、中学校では「受精・妊娠」は取り扱うが、「妊娠の経過」は取り扱わないことになっている。「妊娠の経過」とはつまり「性交」は取り扱わないということで、そのほか「避妊」「人工妊娠中絶」も指導内容に含まれていない、というのだ。

 

これは、ぼくが子どもの頃とまんま同じで、だからこそ安西先生なのだ。現行の日本の公教育だけでは性教育も満足に受けられない。それはつまり、ぼくもあなたも、性的に“未熟”なまま大人になるしかなかったということだ。今まで性被害に巻き込まれたり、性加害に加担しなかったのは、運が良かったにすぎない、というのは言い過ぎだろうか?


なぜ日本でここまで公教育の性教育がおざなりになっているのか、真の理由はわからないが、「寝た子を起こすな」という意見もある。

だが、一方、現行の性交同意年齢ではなぜか「(13歳でも)寝た子が起きてもいいよ?」と言っている。いや、言ってはいないが、これはもう“未必の故意”みたいなもんである。

先ほど紹介した番組では、草の根の運動としてYouTubeで正しい情報を伝えようとしている有志の人々の活動が紹介されていた。けれど、一国のあり方として、先の学習指導要領での性教育に対する消極的な姿勢と、現行の性交同意年齢は明らかに矛盾している。結論をいえば、日本のお粗末な性教育のレベルのままなら、一刻も早く同意年齢を引き上げるべき、ということになる。

 

性交同意年齢の引き上げが最終的になされるかはまだ分からない。

しかし、もし引き上げられたとして、性教育がこれまでと同じ残念な様相ならば最悪であるし、引き上げられずに性教育もこのままならば、最悪オブ最悪なのだ。

ナイキ「女の子は何にでもなれる」動画が支持されない本当の理由

f:id:usukeimada:20210531154904j:image

 

スポーツメーカーのナイキが公開した動画「New Girl | Play New」にネット上で賛否を分けている。

 

youtube

 

2分ほどの動画で、ざっと説明するとあらすじはこうだ。

生まれてくるわが子を心待ちにする夫婦。わが子は「女の子」だと判明する。ここで夫婦の脳裏には、女性だと就職しても会社で活躍できないのではないかや、犯罪に巻き込まれるのではないか、といったいろいろな不安が去来する。

日本の男女には43.7%の所得格差がある。女の子は育てるのが大変。いろいろな話を聞く…。

このあと、動画には世界で活躍する女性アスリートらが立て続けに登場し、これからは女の子が何にでもなれる時代だ、というメッセージを打ち出している。

 

一見、耳触りのいいメッセージだが、一部フェミニストからは、「現実は『女の子が何にでもなれる時代』になっていないんですが???」とこん棒でぶっ叩かれているのが現状である。

 

「女の子が何にでもなれる時代」。果たして、これがどういう定義づけできるかは定かでないが、現に日本の男女間にはれっきとした所得格差が横たわっているし、管理職の比率をめぐる統計もそう。現状は「女の子が何にでもなれる(そして、なるためにそれ相応の対価が支払われている)時代」になっているとはいい難い。

 

しかし、そのことは動画を作った人たちも織り込み済みだろう。元に、CMの中で所得格差には触れている。

現状、「何にでもなれる時代」になってはいないが、動画は「これからそういう時代を作っていきましょう」、という企業としての意思表示ともとれる。

先に触れたように、動画には出産を控えた女性が登場する。妊娠・出産という命を賭した重労働を課された女性がいるのに、「女性が何にでもなれる時代」を謳うのは、たしかに食い合わせが悪いように見える。しかし、本作がスポットを当てたいのが、彼女の生む娘という次代の担い手だと考えたら、納得できないこともない。

 

なぜ、一部フェミニストが噛み付くかというと、多くの人の導入となった、ナイキジャパンのツイッターがまずかったと思う。

 

これは動画コンセプトのコピペなのだが、この言葉好きなで、ともすればノーテンキにすら思えてしまうトーンだと、やはり、「現状認識甘々なお花畑動画」だという先入観を与える恐れがあった。

動画本編を観れば印象が変わるだろ、という期待もできなくはないが、ぼくは元来、こうした炎上案件については、「紹介の仕方」つまり導入部分が要因になっている部分が大きいと考えている。

 

しかし、この動画が支持を得られない理由は、そうした「フェミニストの虎の尾を踏んだ」という点ではない。真の理由は別にあるのだ。

「女性問題」を一緒くたにしているように見える表現の「うかつさ」

ここまで、擁護ととられるようなことを言っておいてはなんだけれど、ぼくはこの動画を全然支持していない。本作全体から醸し出されるなんともいえない「不用意さ」「うかつさ」は耐え難かったし、見終えたときの余韻は爽快などとはほどとおい、「気持ち悪さ」「不気味さ」だった。

その理由について説明していこう。

 

まず、内容の「不用意さ」だが、これはそもそも、「たった2分弱の時間に、のっぴきならない問題を詰め込みすぎ」ということに起因している。

動画の内容を振り返ってみると、先に紹介したように、最初の方で「女性が会議で押し黙る描写」と「夜道で不安げに後ろを振り返る女性の描写」が立て続けにある。

しかし、よく考えてみると、いや、よく考えてみなくても、この2つの描写には直接の関連性はない。特に、「夜道で不安げに後ろを振り返る女性の描写」と、「女性が何にでもなれる社会」のつながりは、かなり薄い。その後に続くおばあちゃんたちのシークエンス。これは、少しわかりにくいが「“女性らしさ”という固定観念」についてだろう。

 

ここまで、最初の十数秒ですでに別個の3つの問題が提示されている。

つまり、「女の子が何にでもなれる時代」という本来あったお題目にもかかわらず、わずか2分の動画に別のテーマまでギュッと詰め込んでしまっているのだ。観る者からしたらノイズが多い。論理的にものを考える人ほど、「なにこれ?」となるのではないかと思う。

そして、そうした手触りの動画を目にすると、この問題に敏感である人ほど(そしてそれは得てして当事者の女性であるが)「お題目が“女性”だからってすべての問題を安易に一緒くたにしてない?」という、作り手の「迂闊さ」「思慮の浅さ」が透けて見えてくる、という仕組みになっているのだ。

 

逃げ場のない「何にでもなれる」の熱苦しさ

もっとも、ここまで突いてきた部分は、形式的なものである。伝え方が悪い、という話にすぎない。絵で言えばいわば、技法や画具、額縁に相当するもので、「伝えたかったこと」ではない。

では、肝心の「伝えたかったこと」はどうだったのか。先ほど書いたと通り、実はぼくはこれが一番ダメだった。初めてみたとき、ゾワッとした。全身の毛が逆立つような気持ち悪さを感じた。

この動画は、執拗に「何にでもなれる時代」を称揚する。

 

しかし、そもそもの話をさせてもらえれば、「なりたいもの」って本当に必要ですか?

 と思うのだ。

 

ゆとり教育かなんだか知らないが、とかく、「なりたいものになる」ことが「良きこと」とされる世の中である。就職面接でも聞かれた。口からでまかせで突破してなんとか会社に潜り込んだら、今度は1on1で聞かれるのである。「君はどのような人材になりたいのか?」、と。

それぐらい考えろと言われればそれまでだが、「なりたいもの」はないけど、今の仕事を真面目にするだけではダメですか? と問いたくなる。「なりたいものがない」人材にとって、「何になりたいの?」がどれだけ苦痛であるか、なりたいものがある人には分からないのかもしれない。

 

動画の後半では、各スポーツ競技で、特に性差の枠を超えて活躍したことのある女性アスリートらを中心にピックアップ。冒頭から出ている夫婦は、妻がいよいよ出産する段階になり、彼女が必死にいきんでいる姿に、カットバックでスポーツシーンで活躍する女性たちが映るという、何とも言えないトリップシーン。

 

ここで音楽も、弦楽器が激しくなっていき、ファナティックに強迫的にムードを掻き立てる。火サスかよ。

そして動画は最後、無事生まれてきたわが子を抱えながら、顔に笑顔の張り付いた女性が「ねえ、あなたは何になりたい?」と語りかけるところで終わる。

出産はお母さんも大変だっただろうが、赤ちゃんだってそれなりに大変だったはず。覚えてはないであろうが。そこで吹き出しに当てはまるのは、本来は「生まれてきてありがとう」的な何かであっても、「何になりたい?」であるはずがない。やっとこさ生まれてきた赤ちゃんである。もうちょっとゆっくりさせてやれ。

 

ここまで来たら、「あなたは何にでもなれる」ではなく、「あなたはなりたいものにならねばならない」と、脅迫されているような気持ちにすらなってくる。

「何にでもなれる時代」は、たしかに理想的で、まったく非の打ち所のないように思える。しかし、この理想を掲げる人の致命的な盲点は、誰しもが「なりたい何か」を胸に秘めているわけではない、ということだ。今にして思えば、「好きなことで、生きていく」にも同じような圧を感じていた。わかったから、勝手にやっておいてくれよ。

 

ナイキの動画の支持されないのは、現状認識が誤っているといった些細な問題が理由ではない。ド直球に掲げている理想が不気味だからである。作り手が「なりたい何か」を全く意識もせずに大前提にすえたカルト動画と言えよう。「なりたいものになれる」時代であってもいいが、「なりたいものがなければならない」わけでは全然ないのである。

 

他人の結婚を祝うことについて

f:id:usukeimada:20210520202133j:image

 

今年の元日に放送されたNHKの特番で、星野源がこういうことを言っていた。

社会的なハッピーエンドとか、社会的な幸せっっていうものは本当にどうでもいいと思っていて。ハッピーエンドとか幸せって自分の中にしかないと思ってるんですよ。

例えば、結婚するってことをハッピーエンドにしたりとか。その形が目標になってしまっているときがあったりする

なんかそれって、本当にハッピーなのか? っていつも思うんですよね。

 

2021年1月1日放送『あたらしいテレビ』より

 

この部分に深くうなずいたのを覚えている。換言すれば、「自分の喜びまで社会に差し出すな」ということである。

星野源がもし、自分自身の結婚が「社会的なハッピーエンド」にラッピングされて、おぞましい狂乱の祭りが巻き起こっている様を目にしたとき、このとき言った言葉を一瞬思い返すかもしれない、昨日、ふとそう思った。

結婚を報告する彼の文章を読むと、たしかに「とても嬉しく、ありがたい気持ちでいっぱいです」というコメントは入れている。しかし、それは最低限の儀礼的なもので、全体としてはとても落ち着いたトーンの、平熱の文章で、上記の引用部分の印象と重なる。

 

結婚したって幸せとは限らない。

人によっては、自分が「結婚した」ことをうまく喜べない人だっているだろう。もしかしたら、結婚したときより、長年苦しめられた魚の目や巻き爪、水虫(なんで全部足関連なんだ)が完治したときのほうが喜びが上だった、という人もいるかもしれない。すべての結婚を一緒くたにして、祝福すべきものとするその圧は恐ろしい。

決まってそういうやつに限って、自分が勝手に祝っておいた結婚が不倫やなにかで破綻したとき、先頭に立って叩き始めるではないか。いったいどういう神経をしているのだろう。

 

別にこれは、「結婚は人生の墓場」だとか「人間は判断力の欠如によって結婚し~」という、おっさんめいた世間知をひけらかしたいわけではない。ただただ、「結婚したからって幸せかどうかはわからないよ」と言いたいだけなのだ。

 

そういう考えだから、ぼくもあるときから友達がSNSで結婚したことを報告しても、安易にお祝いのコメントを送らなくなった。「いいね」すら押さなくなった。ただ指でタッチするだけなのに、である。我ながら大した偏屈である。

背景には「お前の結婚、お祝いするに足りるものなの?」という気持ちがある。もし「祝ってください」と強要されたらしぶしぶ祝うだろうが、「本当にお祝いするほど幸せなの?」とは聞いてみたいかもしれない。

 

ここまで読んで「でもやっぱり結婚はお祝い事だしぃ? とりあえずおめでとうって言っておくのは損じゃないんじゃない?」と思う人がいるならば、その人数が本邦における話が通じない人の現存数なのだと思う。

“カオとカネの交換”とノーマネーノースキルの俺たちへの福音

f:id:usukeimada:20210513222411j:image

将来東大卒医者の妻ゾ

ってTikTokで彼女がイキっとるの見て今すぐ別れようと決意した

別人かもしれんて3度見してもうたわ

 

スカッとジャパンな上記のようなツイートがバズっていた。東大医学部の5回生らしいが、現在、鍵垢になっている。

 

以前にも、このブログでは「年収2000万円だと打ち明けたら彼女がゼクシィを買ってきた」というネットの投稿を取り上げたことがある。

かつて、心理学者・フェミニスト小倉千加子が「結婚とはカネとカオの交換」と喝破して以来、こうした状況はあまり変わっていないのではないか。

男性の高スペック(収入、貯蓄、肩書、スキル、名声など)を、女性が顔や容姿で交換する。いくら男女平等が叫ばれたとて、平均年収で男が女にダブルスコアに近い差をつけている現状、「ジユウレンアイ」というかわいくおしゃれなデコレーションを施したとしても、包丁でザクッとさばいた結婚の内実は、依然、「カネとカオの交換」にすぎないのかもしれない。

 

しかし、ここで男を高スペックと低スペックに雑に二分すると、両者で事情が変わってくる。両者の間に自由恋愛をめぐって不思議な逆説が生まれてくるのだ。

低スペック男は年収も肩書きもスキルもない。ほめられるものがない。守るものがない。誰にも愛されない。死んだほうがまし。それだけに、恋愛市場ではさんざん辛酸をなめるはずである。

けれど、そんな状況でも恋人ができたならば「こんな俺を好きになるなんて…」と、それを「真実の愛」が錯覚できるのである。

 

一方、高スペック男から見える世界の景色は、低スペック男から見えるそれとは全く別のものになる。「この子は本当に“俺”が好きなのか? 俺の肩書きが? 俺の年収が? 俺の勤め先が好きなだけじゃないか??」。彼らは引く手あまたかもしれないけれど、そこから「真実の愛」を探す苦労がある。

「好きな人と恋愛し、結婚する」という「恋愛結婚」は、そもそも、愛という不確かなものによって根拠づけられる。それゆえに、スペック(魅力)の過多は、とたんにその根拠を不確かなものにする。

 

もちろん、あなたの恋人は「私があなたを思う気持ちは真実の愛よ」と必死に訴えるかもしれないし、それを信じることができるかもしれない。相手がTikTokをしていないかぎりは。

しかし、この話のみそは、「これが真実の愛かどうか」ということなどでは毛頭ない。第一、「真実の愛」なんて証明しようがない。もし証明できるとすれば、それは離別か、死別したあとかもしれない。

重大なのは、「真実の愛である、と錯覚しやすいかしにくいかどうか」なのだ。低スペック男は高スペック男に比べると、この錯覚への道が見晴らしよく開いている。何も気にすることなく、「錯覚」することができるのである。

一方、高スペック男は違う。富と名声を得て、虚飾にまみれた彼らには、「真実」と錯覚しにくい状況があまりにも揃いすぎている。もしそんな状況でも快適に生きられるとしたら、それは、「真実の愛などない」とはじめから割り切れる人物ぐらいだ。

 

持ち得るものが少ないゆえに「真実の愛」を信じやすいという環境。それはわれわれ低スペック人材の持ちえる貴重な財産なのだ。

【ネトフリ】VODで観られる19作! 今年のアカデミー賞候補作【アマプラ】

f:id:usukeimada:20210425130120p:plain

 

NetflixAmazonプライム・ビデオのオリジナルもしくは独占配信作品19作をまとめてみた。

 

Netflix【NF】 アマプラ→【AP】

★印が評者のおすすめ度

太字が主要5部門

 

あわせて読みたい

 

【NF】シカゴ7裁判 ★★★★★

www.netflix.com

作品賞
脚本賞

助演男優賞
撮影賞
歌曲賞
編集賞

 

【AP】サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~ ★★★★

www.amazon.co.jp

作品賞
主演男優賞
脚本賞

助演男優賞
編集賞
音響賞

 

【NF】Mank/マンク ★★★

www.netflix.com

作品賞
監督賞
主演男優賞

作曲賞
助演女優賞
撮影賞
美術賞
衣装デザイン賞
音響賞
メイクアップ&ヘアスタイリング賞

 

【NF】マ・レイニーのブラックボトム ★★★★

www.netflix.com

主演女優賞
主演男優賞
美術賞
衣装デザイン賞
メイクアップ&ヘアスタイリング賞

 

【NF】『私というパズル』 ★★★

www.netflix.com

主演女優賞

 

【AP】あの夜、マイアミで ★★★

www.amazon.co.jp

助演男優賞
歌曲賞
脚色賞

 

【AP】続・ボラット 栄光ナル国家だったカザフスタンのためのアメリカ貢ぎ物計画

★★★★

www.amazon.co.jp

助演女優賞
脚色賞

 

【NF】ヒルビリー・エレジー -郷愁の哀歌- (評者未見)

www.netflix.com

メイクアップ&ヘアスタイリング賞
助演女優賞

 

【NF】フェイフェイと月の冒険 ★★★

www.netflix.com

長編アニメ映画賞

 

【NF】ハンディキャップ・キャンプ:障がい者運動の夜明け (評者未見)

www.netflix.com

長編ドキュメンタリー映画

 

【NF】オクトパスの神秘:海の賢者は語る ★★★★

www.netflix.com

長編ドキュメンタリー映画

 

【AP】タイム ★★

www.amazon.co.jp

長編ドキュメンタリー映画

 

【NF】ユーロビジョン歌合戦 ~ファイア・サーガ物語~ ★★★

www.netflix.com

歌曲賞

 

【NF】これからの人生 ★★★

www.netflix.com

歌曲賞

 

【NF】ミッドナイト・スカイ ★★

www.netflix.com

視覚効果賞


【NF】ラターシャに捧ぐ ~記憶で綴る15年の生涯~ ★★★

www.netflix.com

短編ドキュメンタリー賞

 

【NF】愛してるって言っておくね ★★★★

www.netflix.com

短編アニメ映画賞

 

【NF】隔たる世界の2人 ★★★★★

www.netflix.com

短編実写映画賞

 

【NF】この茫漠たる荒野で (評者未見)

www.netflix.com

撮影賞
音響賞
美術賞
作曲賞