いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

平穏でとりとめのない、でもかけがえのないアイツとの日々。『パドルトン』が描く“親友”のオルタナティブ

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今日はネットフリックス映画『パドルトン』を紹介したい。

www.netflix.com

冒頭の医師との会話なども含め、アレクサンダー・ペインの映画のような、全編ちぐはぐな会話が笑えるコメディーなのだけど、観終わったら胸がいっぱいになるような、不思議な映画だ。

 

主人公はマイケル、アンディーという2人のみすぼらしい独身おじさん。2人が知り合ったのは、偶然にすぎない。アンディーが住んでいるアパートの真下にマイケルが引っ越したてきたのだ。

しかし、よほど気が合ったのだろう。2人は休日になると寂れたドライブイン・シアター跡地の壁に向かって「パドルトン」というスカッシュにような謎の球技(これについては深く調べないで映画を観たほうがよい)で汗を流したり、マイケルの部屋に集まってピザを片手に(たぶん)くだらないB級カンフー映画『殺人拳』を鑑賞したりする。夜になると、アンディーは冷え切ったピザをもらって自室に帰っていく。それの繰り返しだ。

何か刺激的で新しいことが起きるでもない。日常のとりとめのない出来事を共有し、あーでもないこーでもないと語り合う日々。でも、その平凡な毎日が楽しいんだよな。分かるよ。

 

しかし、あるときマイケルに転機が訪れる。末期がんで余命が半年であることが分かるのだ。

余命半年を切った者には、安楽死するためのピルが買える権利があるという。マイケルは、そのピルが買える街まで一緒に来てほしい、とアンディーに頼む。

思いの外さっぱりした様子のマイケルに比べて、静かに、でも確実に動揺しているアンディー。ことあるごとに、マイケルをピルから遠ざけようとする。直接言葉にはしないけれど、その気持ちが痛いほど伝わってくるアンディーの姿に、たまらなく切なくなってくる。

 

観ていると、2人の関係性がうらやましくなってくる。2人はときに大の親友のように、恋人のように、夫婦のように、じゃれ合い、喧嘩する。途中で立ち寄った場所でゲイ・カップルと勘違いされて、「いや、そういうんじゃないんです…。別にゲイの人を差別しているんじゃないんですけど、僕たちは違うくて…」と否定するバツの悪い感じも、どこかほころんでしまう。

 

マイケルとアンディーを簡単に「親友」だとか「ブラザーフット」と呼んでしまうと、どこかちがう気もする。

 

マイケルとアンディーの関係は、 

チング 永遠の絆

 

こういうのや、

 

Brotherhood

こういうのでもない。

ましてや、大勢でジャンプ漫画の真似事をして後ろ姿で片腕を突き上げたり、砂浜で一斉にジャンプしたりした瞬間を写真に収め、それをSNSのヘッダーにするような華やかなものでもない。 

マイケルとアンディーの、あくまでも平熱で穏やかな関係性は、それらの熱苦しい部類のそれとは少し違う、親友という在り方のオルタナティブを提示してくれる。 

 

2人の着ている服はダサいし、お金もそんなにはなさそう。仕事もまあ、楽しくはなさそう。劇中を見る限り、申し訳ないがどうやら異性にもモテてはいないようだ。

でも、本当はそれらのことはどうでもいいのかもしれない。人生に大切なものなんて実はそんなに多くはなくて、この2人はまさにそれを手にしたのだ。この関係性そのものを。

 

ぼくの人生に親友がいたことはない。作らないと固く決めたわけではない。フツーに人望がなかったのだろう。

彼らを観ていると、親友もいいもんだなと思う。

でも、1人好きのぼくはきっといつか親友さえも疎ましくなってくるのだろうな。相手が親友なのに最低なヤツだ。だから、こうした映画を観て親友欲を満たせればそれでいいのかもしれない。

『花束みたいな恋をした』 あまり語られない「出自」の話

ノベライズ 花束みたいな恋をした

ノベライズ 花束みたいな恋をした

ノベライズ 花束みたいな恋をした

  • 作者:坂元 裕二
  • 発売日: 2021/01/04
  • メディア: 単行本
 

 菅田将暉有村架純がダブル主演し、坂元裕二が脚本を書いた映画『花束みたいに恋をした』。猛烈に「誰かとしゃべりたい欲」を掻き立てるこの作品において、案の定、ネット上にはもう無数の考察や感想がある。

個人的にも、開幕してすぐの「イヤホン」のくだりで早速「坂元裕二節~」とうならされたり、「共通の好きなものを通してを相手を知った気になる」ことへの危うさだったり、やっぱり資本主義はクソ! 時代は革命的連帯や! といったさまざまな切り口から語りたいのだけど、そういうのは他の人に任せて、ぼくは地方出身で上京してきた者の目線から本作の感想を語りたい。

 

<<以下ネタバレ全開>>

本作の脚本の出来栄えについて、「男女を逆にしても成り立つからすごい」という評を目にした。確かに言われてみたらそうなのだ。菅田演じる麦と、有村演じる絹は入れ替えが可能で、ジェンダーセンシティブであるがゆえに普遍的な物語となり、多くの人の琴線に触れているのかもしれない。

 

ただし、引っかかるのは、このストーリーは男女はともかく、麦と絹のステータスを逆にしてもなりたつのだろうか、ということ。具体的にいえば、それは生まれについてだ。

 

“無理解な親”のちがい

ここで思い出してもらいたいのは、絹と麦が同棲を開始した部屋に、2人の親がやってくるというパートだ。岩松了戸田恵子、そして小林薫のベテラン3人が存分の存在感をはっきして、唯一といっていいほど、菅田と有村が受けの芝居に回る場面だ。

コッテコテの代理店レトリックで娘たちを丸め込もうとする戸田と、世界一ミーハーな「ワンオク」「五輪」の使い方をする岩松、そして長岡の花火大会のことしか頭にない小林と、3人にはゲラゲラ笑ってしまった。

 

ただ一点、この場面は「無理解な親たちから自分たちのユートピアを守るために悪戦苦闘する2人」が描かれ、麦の父親、絹の両親も同等に「無理解な親」として受け止められているフシがある。

しかし、実は麦と絹の親には少し差異がある。

東京で、メディアを介する華やかな仕事につく絹の両親と、朴訥とした麦の親。「文化資本」の観点からいえば、両者には明確な違いがあるようにしか見えない。そしてそれは、麦と絹のバックボーンに反映されている。

劇中でも明かされず、パンフレットをざっと読み通しても書いていないので、これはあくまで推測なのだが、おそらく絹は東京出身者で、麦は地方(おそらく新潟)出身者だ

そして、調布市飛田給に戸建ての実家がある絹にとって「東京(とそこに広がる文化)」とは、「生まれたときからそこにあったもの」であるのに対して、麦にとってのそれはおそらく「上京して手に入れたもの」だったのだ。

 

同棲後、麦はイラストレーターとしての道に行き詰まり、就職活動を開始。苦労した末にゴリゴリの物流ベンチャーに就職する。そこで仕事に忙殺され、以前のようにカルチャーに頭の容量を割くことができなくなっていき、絹との間に次第に心の距離が生まれていく。

この映画を一度観た者ならば、コリドー街で麦からの電話を受けた絹から携帯電話をひったくってでも、彼に「おい麦! その会社だけは辞退しとけ!」と待ったをかけたくなる場面だ。

 

戻る場所が「東京」の人 そうでない人 

けれど、この場面にも絹と麦の「生まれ」の違いが浮き彫りになったように思える。

資格をとって始めた事務職だが、知り合いに誘われた、楽しそうな、でも給料は今より少し下がるイベント会社にあっさり転職した絹。一方で麦くんにはもう後がなかったのだ。

東京出身者の絹にとっては、もし「今」が立ち行かなくなっても、そして、どんなに嫌がったとしても両親に連れ戻されるとしたら、そこもまた「東京」だ。

一方、麦に「東京」に戻る場所はない。仕送りを止められた今、生活が立ち行かなくなったとき、彼は「東京にいてもいい」という根拠を喪ってしまう。だからこそ、決して要領が悪くないはずの麦であればあの会社のヤバさはわかりそうなものを、(ここからは推測だが)目をつぶって飛び込んだのではないだろうか。

「就職」に対して、麦と絹の間に性差による考え方のちがいはなかったといえよう。そうではなく、2人の考えのちがいは、東京生まれかそうでないか、それによって生まれたのではないか。

 

麦がストリュー“掲載”に歓喜した理由

ここからは少し蛇足だが、麦がGoogleストリートビューに自分が写っていることに、異常なまでに執着している意味も勘ぐってみたくなる。

麦のかわいらしいミーハー心がさく裂するくだりだが、実はここにも、非東京出身者の悲しい性があったのではないか、と思う。麦くんにとっては「ストビューに写る」ということそれ自体が重要なのではなく、あくまでも「東京のストビュー」だったことが彼を熱くしたのではないか。

ストビューに自分が載るのは手っ取り早く、自分が「東京にいる」ということの永遠の証明だ(ストビューは人口密集地対では数年に一度撮り直すそうだが、過去の写真も閲覧可能だ)。

ぼくだって、地方から関東の大学に進学し、学内に掲示していた自分の作品が偶然ストビューに載っていたのを目撃したときは歓喜し、こうしてスクショを撮ってしまっている。これは地方出身者の悲しい性なのかもしれない。

 

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今回見返してみてまだあった! 母校に掲示していた巨大漫画

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しかも同時に2作も! こちらは巨大スクール水着のポスター


映画のクライマックス。麦くんは人生2度目のストビュー掲載を知ることになる。もしかしたらあの後、麦くんは下心なしで一度、絹さんに連絡しているかもしれない。「俺たち載ってたよ(笑)」と。そこで東京出身の別れた元カノ、絹がどういう返事をするか、ぼくは怖くて想像したくない。

 

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なお、本作については下記ネットラジオでも一度語っているので、相当時間に暇がある人だけ聴いてみてほしい。

今回書いた地方出身の話については、ここまで書いておいてなんだが、相棒のパーソナリティの話の影響を多分に受けている気がする。

ミソジニーが引き起こした恐るべきテロの追体験『静かなる叫び』

静かなる叫び

『メッセージ』、『ボーダーライン』、『複製された男』、『プリズナーズ』、そして約35年ぶりの新作となった『ブレードランナー 2049』を手掛け、さらに今年はSF超大作の再映画化『DUNE/デューン 砂の惑星』の命運を託された、今もっとも注目すべき監督、ドゥニ・ヴィルヌーヴ

 

彼が2009年に母国カナダ制作で手掛けた長編映画第3作の『声なき叫び』は、物静かな大学構内の風景から始まる。

女子学生2人がつまらなそうに、ノートのコピーをとっている。予備知識なしで見ると、それはとても平和で、平和すぎてつまらない、とりとめのない日常の光景だ。だからこそ、次の瞬間、耳をつんざく銃声とともに、その2人が血を流して倒れることで、鑑賞するぼくらは驚いてしまう。

冒頭のそのシーンはまぎれもなく、実際の銃乱射事件への当事者の驚きと恐怖を、観客に追体験させようとする試みだろう。本作は、1989年にカナダ・モントリオール理工科大学で実際に起きた銃撃事件を描いた作品だ。

 

この銃撃事件の何よりの特徴は、犯人の動機が女性嫌悪だったという点だ。

マキシム・ゴーデット演じる男(クレジットは殺人者)について、映画は深くは語らない。彼が、女性への並々ならぬ憎悪を燃やしていることだけが描かれる。そしてその憎しみは、「女性が社会進出することによって男の居場所が奪われた」というものだった。標的に理工科大学という実学系の大学を選んだのも、その思いがあったからだろう

もちろん、彼の女性嫌悪は逆恨み以上の何者でもない(恨むべきは彼を幼い頃に虐待していた実の父親だろう)。そして被害女性たちには何の非もない。

しかし、得てして憎悪は被害者の顔をしてやってくるものなのだ。たとえそれが被害妄想であったとしても。

 

印象的なのは、犯人が最初に占拠した教室のシーン。彼は手に持ったライフルで学生たちを脅しながら「男は右側、女は左側に寄れ」と、ヒロインのヴァレリーら女子学生と男子学生に選別し、教員を含む男たちをあっさり教室の外に逃がしてしまうのだ。あくまでも凶行の標的は女性のみで、男には用がない。ここで犯人の女性に対する憎しみの執拗さが感じられ、余計に不気味だ。

 

女性の観客には当然、銃弾に恐れおののくヴァレリーら女子学生たちという感情移入先が用意されている。一方、本作は男性の観客側にも「席」を与えているという意味で卓越している。それは、ジャンという平凡な一男子学生。彼はヴァレリーと同じ教室にいて、ちょうどテロの直前、ヴァレリーからノートを借りるという形で彼女と知り合っている。

しかし、その凶行のとき、ジャンは彼女に何もしてあげられないまま、教室を後にすることに。映画では教室の閉まる扉の隙間からヴァレリーとジャンの目が合う。

彼女を救えなかった。そのことでジャンは酷く病むことになる。男性の観客は、「彼女に対して何もしてあげられなかった」という無力感とやるせなさ、後ろめたさを追体験することになる。

 

もっとも、映画は、事件を“イカレタ殺人者”(犯人は独白で自身をそう評している)の“単独犯”だったようには描かない。共犯者こそいないが、犯人の背後には銃口こそ向けていない無数の男たちがいるーーそのことを映画は、ヴァレリーが事件の前に面接で受けたちょっとしたハラスメントを描くことを通して、序盤から目配せしている。

数年後のシーン。生き延びたヴァレリーは恋人との間に子どもを授かる。彼女の「男の子が生まれたなら愛を教え、女の子なら世界に羽ばたけと教えます」という、短くも切なる願いは、本作を通して伝えたいことが凝縮されている。

静かなる叫び

静かなる叫び

  • メディア: Prime Video
 

連続殺人鬼に密着する全くありふれていない“モキュメンタリー”『ありふれた事件』

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Netflixアマゾンプライム・ビデオは、オスカーにノミネートされるほどの高水準のオリジナル作品が魅力だが、一方、世間ではあまりU-NEXTの利点が浸透していない気がする。U-NEXTは先の2サービスに比べると、少し昔の知らない映画に出会えるという利点がある。

本作『ありふれた事件』は、そんなU-NEXTでなければ、出会わなかったであろう、1992年公開、フランス発の怪作だ。

主人公はベンという中年男。長身で面長、額が広く、髪を立たせていることから、どこか吉本新喜劇の中條さんに似た男だ。

 

優しい中條さんと全く違うのは、このベンが冷酷な殺人鬼であるということ。

冒頭から早速、殺人を犯すベン。列車内で妙齢の女性を背後から襲い、絞め殺してしまう。

ところがここで、鑑賞者はおかしな点に気づく。どうやら、殺人で犯しているベンはドキュメンタリー班に密着されていたのだ。

本作『ありふれた事件』は、なぜだか「殺人鬼を密着取材する」というモキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー)の体裁をとる、まったくありふれてないバイオレンス映画だ。

 

フランスの中條さんは、つぎつぎと町中の罪のない人々を、ありとあらゆる手で殺めていく。まるでそれはありふれたことであるかのように。理由も、金を奪うためというありふれたものだ。

密着取材班のディレクター、カメラマン、音声スタッフの3人組は、そんなベンの恐るべき殺しの手腕、そして死体遺棄までを、まるで狩人による狩猟の模様であるかのように、淡々と撮影していく。あるときは死体遺棄を手伝う始末だ。

 

どうしてベンが殺人を生業にすることになったかはわからないし、取材班もどうして殺人鬼を撮影しているのか、そしてどこでその映像を発表するのかもわからない。

ただし、この映画の世界は殺人が完全に許されているわけではないらしい。ベンの両親が読んでいる新聞では、息子の犯した事件がちゃんと報じられているし、ベンもそこでは事件に対して我関せずという顔をしてやりすごす。一応、殺人がおおっぴらにはできない世界のようだ。そのような詳細な設定は、あえて明かされないことで、鑑賞者の関心を引き立てていく。

 

一方的に、殺人者側からの目線だけを伝えているからこそ、おかしな齟齬が、おかしみを生んでいく。

あるとき、取材班の1人が取材中に殺されてしまう。悲嘆にくれるディレクターは、仲間が殺されたことに対して、カメラに向かって涙ながらに語るが、無差別殺人を淡々と密着していた彼を知るわれわれ観客からしたら、彼の大いなる矛盾に笑いがこみ上げてきてたまらない。

その後も、ベンにとって大切な存在が、別の殺人鬼によって彼がするのと同じように殺され、彼は当たり前のように絶望するが、「お前がそれはできないだろ!」というツッコミ待ちのようにしか思えない。

 

暴力に色は着いていない。すべての暴力の先には悲しみが待っている。一見、ブラックユーモアにまみれた作品に見えるが、そこにはそうしたまっとうなメッセージが隠されているように思える。

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  • 発売日: 2014/05/02
  • メディア: DVD
 

引っ越し屋さんと修理業者さんとブルシット・ぼく

先日、ドラム式洗濯機の修理業者さんに来てもらった。

4年前に買った我がドラム式洗濯機。1、2年ぐらい前から、脱水のときに素人からしてもこれはただ事ではないという轟音を出し始め、ついに昨年末、脱水が全くできなくなってしまった。

電話して1週間。修理屋さんが1人でやってきた。しかし、我が洗濯機の自慢の轟音を聞かせるとすぐに彼は「これはただ事ではない」という顔をして帰っていった。どうやら中のドラム自体を替える必要があるらしく、後日、今度は2人がかりで来るとのこと。

これはえらく時間がかかりそうだと心配したが、数日後、2人で来た修理屋さんたちは手慣れた手付きであれよあれよという間に我がドラム式洗濯機を分解し、ドラムを取り替え元通り。わずか1時間弱ですべて終わらせ、颯爽と去っていった。我がドラム式は前のようにかすかな運転音を立てながら、今、ぼくの冬服を洗ってくれている。

ちなみに故障の原因は洗濯ものの量だったようで、業者さんが洗濯機のドラムのほんの底辺の方を手で指して示してくれたのはこの洗濯機の適切な洗濯量。その手の位置を見て、いつもドラムがパンパンになるまで詰め込んでいたことは口が裂けても言えなくなったけれど、「もう二度としません。すいませんでした」と謝る代わりに、ぼくは業者さんの助言を何度も相槌を打ちながら聞いていた。

 

という業者さんの話なのだけど、ドラム式洗濯機で、もう一つ思い出す業者さんがいる。引っ越し屋さんだ。

今の自室は3階にあるが、このドラム式洗濯機も引っ越し屋さんに3階まで運んできてもらったから今ここにあるわけだ。

ぼくからしても分かるのだが、このドラム式洗濯機は非人道的に重たい。本当に理不尽なくらいの重さだ。それはプロならばどうにかなるというようなレベルではなく、引っ越し屋さんが前後2人がかりで抱えながら部屋に入ってきてくれたときの姿は今でも忘れない。体格のいい男性2人が、青筋を立てて「人がこんな表情をしてはダメだ」という悲痛な顔をしながら、命が削られているような聞いたことのないうめき声をあげながら、我が新居に運び込んで来てくれたのだ。

洗濯機が所定の位置に収まった後、業者さんのプライドを傷つけるようで本当は言いたくなかったのだが、反射的に「なんかすいません…」と謝ってしまった。業者さんは「いや、これでもいつもよりは楽だったんで」と笑みを浮かべて返してくれた。もしかすると、いつもそういう風に言うことに決めているのかもしれない。

 

2つの業者さんのエピソードの点と点を線でつなぐのはドラム式洗濯機、なのだが、ぼくがこの2つを並べてしみじみと考えたのは「仕事」についてだ。

彼らの共通点は「ぼくを助けてくれた」ことだ。ぼくが必要としているところに、対価と引き換えにやってきて、ぼくを救ってくれた。ああ、なんと尊いのだろう。誰かのためになる仕事。

難民キャンプで井戸掘っているような人も同じ理由で尊敬はするのだけど、難民キャンプで井戸を掘っている最中の人にはなかなか会えない。ぼくにとって、間近で直撃するのが引っ越し屋さんや修理屋さんなのだ。


もちろんぼく自身も会社員をしている以上、何かの「ために」なっているから、今の席があるわけである。

しかし、ぼくのしているような仕事は、あくまでも「会社の利益追求のため」にあるのであり、本当に必要としている誰かのためになっているだとか、本質的に社会のためになっている、というような気分はあまりない。

やっている仕事がつまらないわけではない。やりがいを感じないわけでもない。楽しい瞬間だってある。

けれど、ドラムを換えてくれた人や、青筋を立てながら洗濯機を運んでくれた人など、「ためになる仕事」を前にしたとき、途端に、居心地の悪さを感じるのも事実なのである。

この前、ネット上のとあるアンケートに答えていたとき職業欄のプルダウンメニューに自分の職業に該当するものがなくて、「サービス業」を選んだ。すると、さらにそのサブカテゴリのプルダウンが出てきて、しかしそこにも自分の職業に当てはまるものがない。結果、「サービス業その他」を選択するしかなかった。あれと似た惨めさがある。

 

ぼくの仕事は本質的には「なくてもいい」仕事なのだ。たぶん、今ぼくが放り投げたとして、困るのは会社のごく一部の人間だけだ。

一方、引っ越し屋さんがある日突然、この世からいなくなったら、ドラム式洗濯機は各家の玄関先で立ち往生していることだろう。修理屋さんという概念がある日突然消失したら、各家庭の壊れたドラム式洗濯機はただ事ならぬ轟音をあげ続けることになるだろう。正真正銘の、なくてはならない仕事なのだ。

 

だからといって、ぼくがここまで長々と書いてきて言いたかったのは、「みんながみんな、人のためになる仕事に就くべきだ」なんて大それたことではない。

近年では、ぼくがいう「人のためにならない仕事」を「ブルシット・ジョブ(意味のないクソ仕事)」というらしい。ブルシット(これたぶん、映画の登場人物とかがつく「ボーシット」って悪態だよね?)とは牛のフンのこと。なんとも手厳しい表現なのだが、悔しいかな反論できないぐらい的確ではないか。

 

この本によると、日本だけでなく世界中でホワイトカラーの「意味のないクソ仕事」が増えているんだそうだ。

まだ書評や著者のインタビューしか読んでおらず、原典はまだ読んでいないのだけど、どうやらこうした「ブルシット・ジョブ」が増えている原因の分析をしている本のようだ。

 

たぶん、ぼくが言いたいのはその先だ。現にブルシット・ジョブに就いている人宛に。

ここで厚顔無恥なるぼくがいいたいのは、「人のためにならない仕事」に対してのネガティブなことではない。そうではなく、「人に求められてはいない仕事だけれど、ここまでバレずによくやってこれたよな」「むしろ、人のためになってないのに、めげずによくやっているよ」「このままバレないようにやりつづけ、そのまま逃げ切ろうぜ」ということなのだ。ぼくたちは、まんまと、したたかに、これまでブルシットなりにブルシットしてこれているじゃないか。そうやって、お互いを励まし合いたいのだ。

卑下も自己嫌悪も必要ない。ブルシット・ジョブだ? 上等上等。よくもまあ、こんな誰とでも交換可能なスキルでそこそこやれているよな。危なっかしいキャリアパスだな。でもまあ、運も実力のうちだしな。うん。と、胸を張って生きていこう。

 

ぼくが言いたいのは、そういうことである。

『推し、燃ゆ』読んで西野とかプペルとか

『推し、燃ゆ』を読んだ。

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」。主人公は、男女混合のアイドルグループ「まざま座」の青担当、上野真幸を推している女子高生あかり。推しの醜聞に対して動揺するあかりの心のひだや、家族との確執、しかしそれでも推しを推すことの尊さを独白調でつづっていく。

門外漢のぼくにとっては「推しを推すとはこういうことだぜ」ということとともに、「推しを推していたって、のっぴきにならない現実は容赦なく心を削ってくるんだぜ…」ということも教えてくれた。オタクは一般人ではないかもしれないが、オタクだって一般人の味わう苦難と無縁にはなれない。

 

推しを推すことに全身全霊をかけるあかりだが、その外部にはさまざまな苦痛が横たわっている。もともと体が弱く、勉強もできず、バイトでも足手まといのあかりは、「推しを推す」ことを自身の「背骨」だと表現する。

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。

「背骨」という表現には、「アイドルを応援する」という語感から想起されるような甘美なイメージはどこにもない。それはあかりにとって文字通り「なくては死んでしまう」もので、それ以上でもそれ以下でもない。あかりの切迫感が伝わってくる。

勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになっていく。

ここで、断食をしてガリガリになって即身仏になった僧侶のイメージを想起させられた。もはやそれはあかりにとって「趣味」や「息抜き」のたぐいではない。宿命なんだな。

 

本作を読み終えて、時期が時期だからだろうか、キングコング西野とプペル、そしてその周辺について思い巡らせてしまった。

 

先月末あたりだっただろうか、ぼくのいるタイムラインからも、毎日のように西野と彼の信者には批判や憐れみ、嘲笑が浴びせられ、石が投げられていた。

しかし、西野がやったことで悪質だと思えるのは、信者から巻き上げた金の使い方がちょっと違っていたり(e.g.帰りの交通費をクラファンして、集金できたところで実はもう帰ってました、とバラすよくわからないイタズラ)、吉本の社員を恫喝した上でそのやり取りを晒したりしたことぐらい。

それ以外のことについては、バカバカしいとは思うけど、赤の他人が傾倒していくことに自分がどんな介入をする権利があるのか、と思う。 バカバカしいものやことに、バカバカしい値段がついていたとしても、それを買う人がいるのだったら、それはもう仕方がない。

80プペルの人だってそう。やりたいならば80と言わず、90でも100でもプペルしちゃえばいいじゃないと思う。その気持ちが燃え尽きるまで。

 

いやいや、あかりちゃんや、ドルオタをプペル一味と一緒にしないで?、と思う人もいるかもしれない。でも果たしてそうだろうか?

ぼくからしたら、西野に傾倒することも、アイドルに傾倒することも、大差はない。

 

しかし、自分で稼いだお金(あかりは、嫌で嫌で仕方がないことがありありと伝わってくるアルバイトの描写によって、ぎりぎりそのフェアネスだけは守ろうとしていることが悲痛なほど分かる)をドブに捨てている以上、それをぼくら外部がとやかくいう筋合いはどこにもないのではないか。

 

「推しを推す」とは結局、第三者からしたら理にかなわない、くだらないことだ。西野やアイドルにかぎらない。世の中の森羅万象すべて、「推す」という行為はみな等しく、外部からみたらくだらないのだ。

しかし、「信仰」は必ずその外部を欲する。いや、「外部」があるからこそ「信仰」は存在し得る。外部があるからこそ加熱できるし、外部があるからこそ加速できる。

 

ただ。

それがどこかの瞬間で、第三者から見ても「崇高」にすら見える一瞬がまれにある。この小説が切り取りたかったのは、おそらくその一瞬なんだと思う。

すべては元帥様のために! 全体主義国家の“検閲”を隠し撮りした異色作『太陽の下で -真実の北朝鮮-』

 

独断と偏見で言えば、優れたドキュメンタリーは必然、「ドキュメンタリーについてのドキュメンタリー」になっていると思う。昨年衝撃を受けた『さよならテレビ』もそうだった。 

ドキュメンタリーというジャンルには、ジャンルが成立したその瞬間から「いかがわしさ」という宿命が影のようにつきまとう。だからこそ、優れた、というより、誠実なドキュメンタリーはその「いかがわしさ」自体と対峙し、「ドキュメンタリーについてのドキュメンタリー」にもなっているわけだ。

 

本作『太陽の下で -真実の北朝鮮-』も、そのことが言えるのではないかと感じる。本作はロシアの映画監督ヴィタリー・マンスキーさんが、北朝鮮当局の共同制作で1年の期間をかけて、8歳(撮影時)少女リ・ジンミちゃんと、その家族に密着しようとした一作。

 

「しようとした」と書いたのは、マンスキーさんの目論見どおりには事が進まなかったからだ。密着対象として選ばれたジンミちゃんとその家族そのものが、北朝鮮当局からの多大なる演出(検閲)を受けていることを察知したマンスキーさん。撮影途中で制作方針を転換し、撮影前後に密かにカメラの録画スイッチを入れたまま放置し、北朝鮮側による演出の場面をまるごと映し続け、それをそのまま「映画」として完成させた。つまり、「ねつ造されそうになったので、ねつ造しているところまで撮ってみました」という異色の制作過程を持つ作品だ。

 

「演出」は、何もジンミちゃん一家が全体主義国家に対して反逆的な態度をとっていたからなされているわけではない。むしろ、ジンミちゃん一家は体制に従順なほうで、撮影者側からの指示に一切逆らわない。 

にも関わらず、「演出」はなにげない日常まで事細かに張り巡らされる。一家の何の変哲もない朝食シーンでも、一言一句、その場の「演出家」か「ディレクター」に指示を出し、さらに何が気に入らないのか座る位置をも代えながら、何テイクも撮り直しを命じる。「さっきのテイクとどこが違うんだw」と笑えてしまうほどささいな語句の違いも、逐一撮り直しさせている。生真面目に台本を読み込むジンミちゃんの両親が健気だ。

 

しかし、彼らがいくら熱心にテイクを重ねて事実を脚色しようと努めても、その努力はその意図のまま届かないことが確定している。なぜならぼくら観客がその撮影過程までをも観てしまっているからだ。「本編にしてメイキング」そして「メイキングにして本編」、それがこの作品の特異性だ。

 

演出=ねつ造は、ジンミちゃんたちの発する言葉尻だけではない。ジンミちゃんの両親は、職業というステータスまで撮影のためにねつ造されてしまう始末だ。本当の職業は記者だというジンミのお父さんは、 工場の従業員ということにされ、実際に働いているところを撮るシーンも描かれる。

 

そんな風に全編、演出された北朝鮮の一般家庭とその撮影プロセスが映し出された本作。

 

しかし、北朝鮮の国民だって人間だ。本作のカメラには、当局側の検閲をすり抜けてきた、北朝鮮の国民たちの「素顔」も収められている。

例えば、ジンミちゃんのお母さんの撮影で出てきた工員たち。命令に従いはするけども、横一列に立たされて撮影を待っている最中には「めんどくせえなあ」か「早く仕事に戻りたいなあ」という気持ちなのかつまらなそうな顔があれば、バツが悪いのか苦笑いする顔、さらには眠たそうにあくびをする顔もある。皮肉なことに、撮影と撮影の合間の瞬間こそが本作においてもっともドキュメンタリー性を帯びている。

「演出家」が熱心に演技指導する声に、彼ら彼女らの死んだ目をした表情が重ねられ、その光景はどこか滑稽ですら思えてくる。

 

そのように、全体主義国家の滑稽な横顔を皮肉たっぷりに詰め込んだ本作だが、クライマックスではやはり、笑えない実情に戻ってくる。

すべての発言を統制された上でしゃべるジンミちゃんが、カメラの前で耐えきれなくなって泣き出してしまうのだ。それは本物の涙と言えよう。

しかし、大人たち(画面には映らない)が冷徹な声色で「落ち着かせろ」「好きなことを考えてみて」と指示を出すと、「よくわかりません」と困惑するジンミちゃん。「好きな詩」を聞かれると、テープレコーダのようにスラスラと体制賛美の言葉を紡いでいく。

ドキュメンタリー監督がプライドをかけた隠し撮りが切り取るのは、全体主義国家の滑稽さと恐ろしさだ。