いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

これが2020年の『若草物語』 グレタ・ガーウィグが仕掛けた素敵な“詐術”

「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」オリジナル・サウンドトラック

 

古典的な名作をリメイクする際には、当然ながら、超えなければならない「ハードル」がいくつかある。

ルイーザ・メイ・オルコットの超超超有名古典『若草物語』を、いま一番イケてる(死語)監督の一人、グレタ・ガーウィグと、『レディ・バード』でヒロインを演じたシアーシャ・ローナンティモシー・シャラメが再結集してリメイクした『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/私の若草物語』は、今後、そんな古典作品のリメイクについて考える上で試金石になるかもしれない。

レディ・バード (字幕版)

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  • 発売日: 2018/09/20
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4姉妹をシアーシャ、エマ・ワトソン、そして新進気鋭のフローレンス・ピューらが演じ、生き生きとした姉妹の風景を作っている。さらに姉妹たちを魅了するヨーロッパ生まれの青年ローリー役のティモシーとはしゃぐさまは、あらすじは分かっていても、観ていて楽しい作品に仕上がっている。

 

冒頭で書いた古典リメイクの「ハードル」。1つ目は「語り口」「テンポ」だ。いかに名作でも、現在の観客からしたらキツいのは、テンポやストーリーテリングが平板なことにある。本作『若草物語』も1949年版を観たことがあるが、時系列で淡々と4姉妹のストーリーをつむいでいくだけのため、言い方は悪いがかなり強烈な睡眠導入剤と化す。

 

その点、本作は心得ており、時系列を複雑にいじることで、平板な物語に命を吹き込んでいる。ストーリーはシアーシャ演じる次女ジョーがニューヨークに滞在しているところから始まり、ベスの看病で帰郷するまでの間に、回想シーンで幸福な4姉妹のときを断片的に見せていく。これが現代的で、本作を「古くて新しい物語」として蘇らせていることに成功している。

 

しかし、本作の本領は、そうした「語り口」とは別のところにある。

それが、古典の名作をリメイクするために超えなければならない「ハードル」の2つ目に関係する。それは「価値観」である。現在『風と共に去りぬ』の黒人描写が、時勢とともに絶賛クローズアップされているのだが、何事も時代的な制約は免れない。

www.cinematoday.jp

 

旧態依然とした価値観を、現代にそのまま描くことはできない。本作はその「ハードル」をいかにして飛び越えたのか。

 

<ココからはネタバレなのでご注意>

妹ベスの死に悲嘆に暮れるシアーシャ演じるジョー(作者オルコットがモデルとされている)は、思い立ち、自分たち姉妹についての物語を書き上げ、出版社に送る。

 

その後、再会したベア教授と再会し、彼と結ばれるジョー。

 

ここまでなら、既存の『若草物語』のままである。

しかし、ここで本作にはある「詐術」的なシーンが差し込まれる。送った原稿が編集者のお眼鏡にかない、出版されることになり、ジョーは編集者の元を訪れる。そこでジョーは、作中のヒロイン、つまり自分がモデルのキャラクターについて「結婚させてハッピーエンドにしないと売れない!」という編集者の意向をしぶしぶ飲み、ヒロインを結婚させることにするのだった。

 

実は、この「編集者との会話」シーンは、原作にはないという。原作は手元にないが今回試しに「1949年版」と、「1994年版」の映画『若草物語』を確認してみたが、たしかにそんなシーンはどこにもない。両作とも、ジョーの原稿はいつの間にか出版されており、彼女の伴侶となるベス教授がいかにも恩着せがましく本を持ってきて、彼女を喜ばせるのである。

 

この「編集者との会話」のシーンに、いかなる意図があるのか。

原作者のオルコットは、「女性は結婚するのが当たり前」だった当時において生涯未婚を貫き、自身の文才によって身を立て、貧しい家族を養っていたーー当時の女性としては圧倒的にマイノリティだった。そんな彼女の代表作にして、自伝的小説の『若草物語』では、彼女の分身ジョーが結婚しているのである。

 

ガーウィグの挟んだ「詐術」的なシーンが描こうとしているのは、ジョー=オルコットが、「わたしの物語」の結末において自身の意志を貫けなかったことへの悔しさ、もしくは、信念を曲げてでも作品としての爆発的なヒットという「実」を取った、というしたたかさだったのではないか。

 

どちらにせよ、「編集者との会話」のシーンが一つ挟まれたことによって、映画はより多層にも複雑化する。なぜなら、「女性の幸せは結婚」という旧態依然とした価値観は、ジョーが「強いられたもの」あるいは「あえてそうしたもの」という強烈なエクスキューズが挟まれるからである。かくして、『若草物語』は、「時代的な制約」を「制約」としてあえて「可視化する」という戦略によって、現代に蘇る。

 

この企画を知ったとき、ぼくは「今さら『若草物語』?」と感じた。なにしろ、最終的に生き残った3姉妹が全員夫をもうけ、幸せに暮らすというストーリーである。これだけ生き方の多様性が叫ばれる時代に、真正面からそのまま描くのはあまりにも窮屈だ。果たしてそれは、2020年の観客に受け入れられるのだろうか。たとえ、グレタ・ガーウィグの手腕を持ってしても。

 

しかし、見事な形でその予想は裏切られた。本作が、今後の古典リメイクに与える影響は果てしないだろう。

壮観な会社版「強さのインフレ」ケヴィン・スペーシー主演『マージン・コール』 大企業勤めの人ほど観てほしい

マージン・コール(字幕版)

マージン・コール (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
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 ケビン・スペイシー主演の金融映画『マージン・コール』。舞台は2008年の大手投資会社。「リーマンショック」の爆心地である「リーマン・ブラザーズ」をモデルにしている。難しい金融の仕組みとかはあまり考えなくても観られる面白い作品だった。

 

 世界的な金融危機を引き起こすことがほぼ確定した金融マンたちの、危機が表ざたになる前の罪悪感、葛藤などが描かれるのだが、「お前ら給料いくらもろてんねん」と、文字通り自分とは桁違いの年収に閉口しているぼくからしたら、そうした感情の部分では一つも共感するところはなかった。また、本作から学べるのは、金融業という「虚業」に対する警戒心でもない。


 そうではなく、この映画は「とんでもない問題が発覚し、雪だるま式にどんどんエライ人が登場していく様」が楽しいのだ。


 新しい『スター・トレック』シリーズでスポックを演じるザカリー・クイント。彼がピーターという、いかにも下っ端っぽい下っ端のリスク管理部門の若手社員を演じているのだが、ピーターが、解雇された上司から「用心しろよ」という言葉とともに謎のUSBを受け取る。

 

 ピーターがUSBの中身を分析したところ、あらびっくり。100年以上の歴史を誇る会社が余裕で吹き飛び、さらに世界がパニックとなるレベルのリスクがもうすぐ、確実に破裂することが分かったのだ(このあたり、ボランティアだかボラギノールだか、難しい言葉が連呼されるが、とりあえず「未然に防げたけど軽視したせいで莫大に膨れ上がったリスク」だと理解しておけば良い)。


 これに慌てたピーターくん。アフター5にバーで飲みちらかしていた同僚と、眉毛なしで顔が怖い直属の上司をわざわざオフィスまで連れ戻して事態を報告。伝えられた2人も秒でこれはやばいことだと悟る。


 さあここから、社内の権力のピラミッドを縦に突っ切っていく伝言ゲームが始まる。そこそこえらいケヴィン・スペーシー演じるサムに事態が伝わり、さらにさらにサムより上のデミ・ムーアや、寒いよりだいぶ若そうな重役が呼び出され…と雪だるま式にどんどん会社のえらい人たちが担ぎ出されていき、最終的に会長が会社の屋上にヘリコプターで降臨する。


 かくして、ど深夜に会社のトップたちが会議室に一堂に会することになる。そこに、ヒラの社員なのにリスク発見者として呼ばれるピーター。まるでそれは漫画『キングダム』で、まだ一兵卒だった信の前に、名だたる将軍らが一堂に会する壮観な眺めだ。そう、これは「会社キングダム」なのだ。


 ここで興味深いのは、普段はあんなに怖そうな眉毛なし上司が、ピーターたちと身近に見えてしまうこと。全く距離は変わらないはずなのだが、彼も会社の全体像で見ればまだ下っ端で、ピーターたちと一緒に会議室では借りてきた猫のようになってしまう。あまりに強大なVIPたちが現れたせいで相対的に距離が縮まった(かのように錯覚できる)のだ。


 こうした何層にも渡る権力構造が面白いのは、いわば「強さのインフレ」だからだろう。「え!?あのベジータフリーザの怖さの前に震えて泣きべそかいてる!」と衝撃を受けた、あのときと同じである。男の子ってこういうの好きね~と言われればそれまでなのだが。


 話は少し変わるが、本作でケヴィン・スペーシーが演じるサムは、なかなか複雑なキャラクターだ。映画冒頭では、社内で大量解雇が断行され、多くの社員がクビになる。ここで、デスクに突っ伏して涙するサムが登場。大量解雇への申し訳なさで泣いているのかと思えば、どうやら違う。飼い犬が死にそうだから泣いていただけらしい。あなた何人もを野良犬みたいに即日で外に放り出してるんですけど…。ここで眉毛なし男がマジかよ、とドン引きするのだが、サムにとっては部下たちをクビにすることなど朝飯前。むしろ、解雇を免れた社員たちに「君たちは有能で、チャンスを与えられたんだ」と発破をかける材料にすらしてしまう。


 ここだけ見るとドラマ『ハウス・オブ・カード』での利益のためなら人をも殺す大統領役に近似するように見える。しかしサムは、会長が会社を守るためにある「マナー違反」を犯すことを決断した際には、真っ向から反対し、止めようとする。部下の解雇にはあんなに冷淡だったにも関わらず、だ。


 ここから、前半で起こった「冷淡に見えた解雇」はサムの性格的な気質というより、彼の能力主義を極限まで追い求めたスタイルであったことが導き出される。そして、高潔な職業倫理があるからこそ、相手が会長とて不正を見逃せなかったのだ。彼はきわめて倫理的だということだ。


 とにもかくにも本作は、権力のヒエラルキーが何層にも積み重なる大企業に勤めている人ほど面白く感じると思う。

アンジャッシュ渡部の不倫 自分がスケベな俗物だと自覚あるものだけがクリックしなさい

トイレの神様(DVD付)

 

 今回の件について、前々からの私見とそう変わりはないのだが、今回も、おそらく多くの人が勘違いしている。
 
 今回の騒動は、とんでもない大問題なのか。
 
 ちがうよ?
 
 こんなの、一般家庭でもよくあることである。ある男が、婚姻外の女たちと致しちゃっただけ。たまたま、それが超ど級の有名人夫婦だっただけなのだ。
 
 では、なぜみんなこんなに寄ってたかって、この話題について意見を表明するのだろう。
 
 みんなが分かってないことがある。
 
 結局みんな、「不倫」、大好きなんでしょ?
 
 まあまあまあ、そう否定すんなよ。分かってるって。大衆は「不」「倫」の2文字が大好きなのだ。
 
 「不倫」などの性のワードが醸し出す甘味な誘惑については、一介のネットメディア編集者の身であるならば、嫌でもよく分かる。性のワードのなかでもとりわけ強い力を持つ「不倫」という見出しには、クリックしたくなる魅力が隠されているのだ。
 
 これに加えて、「多目的トイレ」というスキャンダラスな追加情報も加わったことで、それに拍車がかかった。みんな、「障害者トイレでおセックスをするなんてけしからんザマス!」と、大手を振ってこの件に「バッシング」というポーズをとって参加できるようになったのだ。
  
 でもね? みんながこんなにこの件から目が離せなくなったのは、それが「性の話題」だからなのだよ。このことだけは絶対に忘れてはならない。みんな、「セックス」について読んだり語ったりするのが大好きなのだ。
 
 今日も朝から、マスコミは擦り切れるまでバンバン今話題にふれるだろう。でもそれはこのスキャンダルが「重要」だからではない。
 
 前にも述べたが、順序はあべこべだ。
 
 みんなが注目するから、トップで扱っているだけ。そして、なぜみんなが注目するかというと、咎められることなく、「セックス」の話題に触れられるからだ。

 

 こうした話題では、まず真っ先に「不倫相手」の特定が始まるのが、昨今の常だ。今回はその上、相手の一部が「セクシー女優」(あいからわず慣れないこの不自然な呼称!)だったということで、目の色を変えて特定に走った人々も多いのではないか。彼らが特定した暁には何をするかは決まっている。同じ名前で「FANZA」で検索するはずだ。「どれどれ、渡部が抱いた女というのは…」と値踏みして、視姦しているに決まっている。

 大衆を支配するのは、正義でも道徳でもなく、セックスであり、金なのだ。この徹底的なスケベで俗物性こそが、大衆なのだ。

 

 しかし、それが悪い、と言いたいのではない。問題はそれに自覚的か、だ。

 

 テレビのワイドショーといえば、「俗物」の塊のような大衆文化だが、未だにこうした番組に対して、「くだらない」「低俗」といった定形の罵倒を繰り返す者が存在する。はっきりいってアホである。
 
 それは、言うならば風俗嬢のテクニックで果てたあとに、「こんな仕事いつまでもしてちゃだめだよ」と説教垂れるおじさん風情と同じ。あー、ダサい。「くだらない」ならば、観なければいいのであって、「くだらない」と言いながら観ている時点で、それはもう三こすり半で果てた説教おじさんと同じである。いや、説教おじさんが早漏であるかは分からないが。
 ワイドショーがくだらないなんて当たり前だ。ならば取りうる選択肢は2つしかない。見ない、か、くだらないと承知の上で楽しむか、だ。個人的には、坂上忍梅沢富美男は嫌いではない。ああいう、支離滅裂なことを電波で話す狂人たちをながめるフリークショートとして、ワイドショーは存在意義がある。ただし、報じている表層の部分でほとんど信用していないが。

 

 では、お前はどうなんだ、と?
 
 そう、何を隠そうぼくも、この手の話題が大好きである。「セックス」「不倫」「多目的トイレ」という話題について、話すのに目がない。普段から話している。

 しかし、ここまで書いてきたとおり、ぼくはそれに自覚的である。ああ、自分は俗物でスケベだなあと思いながら、今回の騒動も眺めている。だから、渡部については悪感情は全くといってない。擁護もしないが、まちがっても「正義」の名のもとに叩こうとも思わない。

 それから不倫していたトイレが、東京・六本木ヒルズだったという情報も、個人的には感慨深い。なぜなら、そばにあるTOHOシネマズ六本木ヒルズは、コロナ禍前までは仕事終わりによくお世話になっていたのである。そのすぐそばのトイレで渡部がお世話になっていたとしたらと思うと、胸が熱くなるのである。

本官、「初めて知った」警察であります

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サムネイル 困ったときは いらすとや

 

今まで黙っていたが、本官は「初めて知った」警察なのである。「初めて知った」という表現を見ると、本官は気になってしかたがない。別に誰かが「初めて知った」と使ったとしても、それを指摘はせずに黙っているので、正しくは「初めて知った」“秘密”警察と言えるかもしれない。

 

「初めて知った」という言い回しは、ほぼ日本人全員が一度は使ったことがあるだろうし、頻度も多い。ツイッターを見ていると、「初めて知った」はほとんど毎分ペースで新たに生み出されているのが分かる。
https://twitter.com/search?q=%E5%88%9D%E3%82%81%E3%81%A6%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%9F&src=typed_query

 

しかし、この言い回しはおかしいのだ、と本官は怒っている。

 

というのも、「初めて知った」という言い回しは間違いなのだ。「知る」というのは一回性の行為なのであって、「初めて」とつけるのはおかしい。その言い回しが正しいとするならば、「私は忘れっぽいバカなので、今後も、今回“知った”ことを忘れて“知る”ことになるでしょう」という予告でしかない。

 

正しく言うならば、「初めて」を外して単なる「知った」で意味は通るのである。「初めて」をどうしても付けたいならば、「初めて聞いた」でもよいのである。

 

では、なぜ、人は「知った」という動詞に「初めて」とイチイチつけたくなるのか、を考えてみたい。おそらく、「知る」という経験自体の興奮=「こんなの初めて!」に浮かれてしまい、ついつい「初めて」と付け足してしまうのではないか、と思う。知らんけど。

 

そういう本官も、では今までに一度も「初めて知った」と言ったり、書いたりしたことがないかというと、全然あるのである。

 

流石に書き言葉のときは「初めて知った」まで、書いて、「あ、ちがうちがう」と「初めて聞いた」に書き直しているが(それでも過去のツイートやブログには頻繁に登場する)、口頭ではかなり使っていると思う。偉そうにここまで書いておきながら、である。

 

本官も「初めて知った」の恐ろしい依存性に抗えないのだ。今回、このことについて「初めて知った」というみなさまも、ゆめゆめご注意されたい。

世界に“粋”が足りてない

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 インターネットの古い賢人の言葉に「(ネット掲示板を使うのは)ウソをウソだと見抜ける人でないと難しい」という格言がある。

 この言葉には一定の真理はあると思うが、ある重要なことが抜け落ちている。「ウソをウソと見抜く」ことがどんなに難しかろうと、「ウソをウソと見抜けない人」は勝手にネットを使ってバカなことを繰り広げてしまうということである。

 テレビ番組のリアリティショーに出演していたある女性が亡くなった。死の詳細は不明であるが、番組での彼女の振る舞いに反感を持った者たちから、ネットを通じて度を越した言葉の暴力が彼女を襲った、ということはすでに周知の事実である。

 この件をめぐり、すでに出演していたリアリティショーの配信は停止してしまった。

 
 さらに、番組はドキュメントではなく、制作サイドによる演出、指示があったのではないか、という疑いがあがり、大きな批判を集めている。
 
 しかし、これはナンセンスな議論だ。
 
 なぜなら、純度100%のドキュメント(記録)も純度100%のフィクション(作り物)も存在し得ないからだ。
 
 たとえ演出や指示がなかろうと、「カメラがある」という事実そのものが、その場にいる人間の行動を規定して影響を及ぼす。「カメラを置く前の生の現実」はそこにないのだ。
 
 一方、フィクションであろうと完全な作り物とは言い切れないのだ。ぼくはかつて、森本レオに過去の婦女暴行疑惑が持ち上がった際、子供心に『きかんしゃトーマス』のナレーションでの声の震えに、事件の拡散、経時的、社会的な訴追への恐れを感じ取った。それが本当かどうかはわからないが、可能性は0とは限らないではないか。 フィクションであろうと、フィクションに記録される事物、人物は生の存在であり、ドキュメント性(生の記録)は消しされないのだ。

 番組が「リアリティショー(ドキュメンタリー)」なのか、「リアリティ(の)ショー(フィクション)」なのかは、もはや意味のない議論なのだ。

 
 それにもまして、なぜテレビ番組が叩かれるかというと、「テレビの演出のせいで彼女は死んだ」という見方が強いからっだろう。
 
 でも、それは大きな間違いである。
 
 バカを言っちゃいけない。誹謗中傷を止められなかった側が悪いわけがない。誹謗中傷した本人が悪いに決まっているではないか。もちろん、番組サイドに、亡くなった彼女への精神的なケアが足りなかったのではないか、という点についての議論は、一定の妥当性がある。しかし、だからといって「番組そのものが絶対の悪だ」という見方に、ぼくは与しない。
 
 というのも、今回の件で、「誹謗中傷を煽った番組が全て悪い」という見方をするのは、人間の知性への諦めが早すぎるのだ。

 あるプロ野球選手が、有名人を襲う誹謗中傷の際限のなさを、人間を取り囲む無数のバッタの大群に喩え、大きな話題になった。

 けれど、人間はバッタではない。知性を持った動物なのである。彼らを野放しにして、すべて番組に非を負わせるのは、人間の知性を諦めるのと同じである。
 海外の同様のリアリティショーでも、すでに複数の自殺者が出たという情報もある。こうした番組の構造そのものに問題がある、という見方に普遍性があるともいえる。けれど、それなら、ここで書いたことを外国語にして、同じように海外に発信したいとすら思う。

 誹謗中傷は誹謗中傷を誘発した側が悪いのではない。誹謗中傷したやつが悪いに決まっている。その事実は変らないのである。「煽ったやつが悪い」は、人間の知能をバカにしすぎである。
 
 今回の件について、ぼくの周りの熱心な番組のファンである友人たちは、まるで自分のことのように心を痛め、死んだ彼女が絶対に見ることがないクローズドな場所でつづっていた自分の言葉を悔やむ人もいる。
 もちろん、テレビについてどんな感想を持つのも、それは内心の自由であり、問題はそのアウトプットの仕方だ。
 
 それに対して、今回の件で自分のことを「全く悪くない」と確信している愚鈍な人間たちほど、恥も知らずに「正しさ」を発信をし続け、その愚鈍さをよりいっそう際立たせている皮肉な事態である。
 
 世界に“粋”が足りてない。これは今回の問題よりずっと以前より思っていたことだ。“粋”とはつまり、「内面的な洗練」と言える。言い換えれば、「みなまで言うな」「察しろ」という美意識だ。
 2ちゃんねるが流行り始めたころ、ぼくは、そのタブーのない言論空間に度肝を抜かれた。テレビやラジオとはちがう。何についても論じていい。その広大さに圧倒された。
 でも、何について、どう論じてもいいというのは、つまらない便所の落書きに堕してしまうことを、ぼくらは嫌というほど思い知った。
 それが、ぼくが粋の反対だと感じている「野暮」である。
 
 何についても首を突っ込み、ありふれた意見を排泄する様は、まったく粋ではない。その対極の野暮というものだ。
 
 もちろん、バカは二度と発信するな、とは言えない。けれど、「野暮」を捨てて「粋」に生きるべき、という生き方を発信することをぼくはきっと今後も諦めないと思う。
 
 もっとも、彼女を襲った「野暮」な人間たち全員が「粋」に転向したところで、彼女は二度と戻ってこないのだけれど。

【随時更新】ニューヨークのニューラジオがおもしれーんですよ! 傑作回を独断と偏見で紹介【芸人ゲスト回】

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これが昨年秋に行った本当のニューヨーク

 結成10年目のお笑いコンビ、ニューヨークのYouTubeラジオ「ニューラジオ」が面白い。

コロナ禍より前から、ニューヨークのタチの悪い(褒めてます)コントが面白いなーと思っていて、昨年の『M‐1』での「最悪や!」プチブレイク後にYouTubeの公式チャンネルを知り、また友達から激プッシュされることで、ハマってしまった。

 

www.youtube.com

 

そんな終身名誉ブレーク直前ゴールデンMC候補筆頭好青年のニューヨークの2人なのだが、コロナによって劇場が閉鎖して以降、その状況を逆手に取り、芸歴の近い芸人を中心にYouTubeのラジオに呼んでトーク・ラジオを繰り広げている。

この番組が、2人の聞き上手の才能も相まって、各ゲストから濃いめのおもしろい話を次々と引き出し、さながら「オーラル・ヒストリー」の様相を呈しており、聴き応えあるのだ。

 

ただし、各回1時間30分という長丁場であり、コーナーなどで区切っているわけではなく、面白いところを探すのは結構たいへんだ。

というわけで今回は、ネットメディア土方のこのぼくが、持ち前のセンス()で小見出しをつけて“再編集”。独断と偏見で紹介していきたい。

 

すゑひろがりずの回

www.youtube.com

すゑひろがりず南條、『M-1』より『R‐1』が怖かった…ストレスで10円ハゲ
※4分ごろから

■ 正月番組に呼ばれたいのに…三島、『ロンハー』でハネたのをガチで嫌がった理由
※15分ごろから

■ 結成後も鳴かず飛ばずで7年経過…「狂言」ネタでガチッとハマった瞬間
※22分30秒ごろから
 

■ しずるの回

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■ まるで“ジョンとポール” しずるのネタ作り「衝撃のスタイル」
※5分ごろから

■ 一度解散、村上“NSC同期”実兄とコンビを組むも…せつない結末
※29分ごろから

■  日記に「村上○すぞ」 池田がストレスを溜めた理由は…
※39分ごろから
 

■ インディアンスの回

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■ 「M‐1」で覚醒! キムのヤバさ 田淵は“ネタ”に入れ込むことに苦悩
※5分ごろから

■ 一度解散したインディアンス…田淵を奪われたキムが取った衝撃の行動とは?
※16分ごろから

■  『M-1』衝撃写真で緊急事態! 田淵がパニックになった舞台
※33分ごろから
 

スピードワゴン小沢の回

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スピードワゴン、漫才に本格復帰したワケ 相方・井戸田に触発されて…
※4分ごろから 

NSC講師のキム兄の名言「売れるのは100%運です。けれど…」
※30分ごろか

■ 小沢が書くネタに「面白くないでしょ」おぎやはぎ矢作が言い放った真意とは…?
※42分ごろから 

 

ほか、いろいろな回を聴いてはタイトルを作っていたのだが、データが全部飛んでしまった!

というわけで、今後は思い出しながら復元し、随時このページで更新していきたい。

 

ビル・マーレイに憧れたあの頃…

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子どもの頃、ビル・マーレイに憧れていた。

出会ったのは、ビルがピーター博士を演じた映画『ゴーストバースターズ』だ。父親が借りてきたこの映画を観たことが、ぼくの人間性を決定づけることになる。

ゴーストバスターズ (吹替版)

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  • 発売日: 2013/11/26
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ビルが演じたピーターは、まことにフザケたヤツである。

映画の冒頭からその片鱗は垣間見られる。美女学生と普通の男子学生を相手にした超能力テストを行うピーター。彼は美女学生がどんなカードを言っても「正解だ」として超能力があることをほのめかすが、対して、男子学生に対しては冷淡で、男子がカード当てに正解したとしても絶対に正解だと認めず、代わりに電気ショックを与える。

この理不尽なシーンに、子どものころ大笑いしてしまった。

 

ビルはカッコいいビジュアル……とはお世辞にも言えない。額が広く、少々ハゲかけているし、やたらタレ目である。

しかし、そんなビジュアルとは関わりなく、彼のキャラクターが魅力だったのだ。人を食ったような佇まいで皮肉屋で、少しスケベで女の尻を追いかけてばかり。

何よりも仕事に対してのふざけた向きあい方がいい。よく言えば力が抜けた、悪く言えば不真面目なスタンス。基本的には「マジ」にならない。しかし、いざというときは「やれやれ」という具合に重い腰を上げ、先陣に立って前に進む。

 

ゴーストバスターズ』それ自体がサイコー・オブ・サイコーの映画であるのは異論がない。ほかのキャストも最高だ。

ハロルド・ライミス演じるイゴンの生真面目でスマートなツッコミ役はカッコいいし、ダン・エイクロイド演じるレイモンドの純粋な科学少年キャラもキュートだ。アーニー・ハドソン演じるウィンストンは……少々出番は少ないが、一番まともなフリをしてたまに飛び出す「俺は雇われただけ」という正直すぎる本音にはクスっとなる。

けれど、やはり、ぼくにとってはこの3人はあの映画の中ではビルの引き立て役にすぎない。子ども心に、ビルが出てこない場面が早く過ぎてほしくて、早く、ビルが出てくる場面になってほしいと思ってしまった。

 

ビルが、名門コメディ集団「セカンド・シティ」出身であるのはそのあと知り、なるほど、と合点がいったところがあったし、カメラが回っていないときのビルも役柄と同じように人を食った性格なのを知って、ますます好きになっていった。

子どものときは、いろんなロールモデルを心のなかに買うものだが、おそらく最初期に、こういう大人になりたいと思ったのは、ぼくにとってビル・マーレイだった。

ぼくの狂気じみたところはそこからで、ビルに感化されてからしばらくは、友達グループも必ず、3人グループか、4人グループにするように心がけた。それ以上に増えるようだったら、自分から抜けて疎遠になるようにしていた。なぜなら、5人ではゴーストバスターズではないからだ。

 

そんな風にビル・マーレイに出会い、憧れてからかれこれ25年近くがたった。

ふと先日、『ゴーストバスターズ』を見直してみて、今、自分はあの頃憧れていたビル・マーレイみたいになれているか? と、問い返してみた。

 今、ぼくは34歳だ。ニューヨークに住んでいないし、大学教授にもなっていない…ということは目をつぶるとしよう。

しかし、もっと本質的な部分ではどうだろう? つまらない真面目な大人になってしまったのではないか? 毎日、せっせと仕事をこなして、真面目に生きてしまっているのではないか?

 

…と自分を点検してみたのだが、意外と、ビル・マーレイみたいなところは残っている。

いつもフザケて、軽口を叩く楽天家。もうそろそろ周りから呆れられるか、すでに手の施しようがないとさじを投げられているかもしれない。

仕事はあくまで他人事だ。テキトーにこなして、要所だけは押さえておくスタンスである。いざというときまでは、4割、いや3割かな…それぐらいの力でやる。一度、「なぜ自分はこんなに仕事がテキトーなのだろうか」と真剣に悩んだことが、ぼくでも3秒ほどあるが、まあ仕方ない。こういう性分なのだろうと諦めた。3秒で。

ハゲ…はまだ始まっていないが、これは別にビルの後を追わなくていいからな、ぼくの毛根よ。

 

そんなこんなで、意外にも、ぼくはぼくの中にビル・マーレイが生き続けていることを発見したのである。

ビル・マーレイに憧れてこういう大人にできあがってしまったのか、それとも、ビル・マーレイになる素質十分でこの世に生まれ、たまたまビル・マーレイに出会ったときに「仲間だ」と本能的に嗅ぎ取ってしまったにすぎないかもしれない。すべてをビルのせいにはできない。

 

こんな風にあらためて書いてみたのは、ビル・マーレイが『ゴーストバスターズ』に“就任”したのが、ぼくと同じ34歳のときだった、と調べていて分かったからだ。

34歳最後の日にこのことを書き記しておく。