あまりにも理不尽な目にあい、怒りに震えたとき、悲しみにくれたとき、ふと一瞬我に返る。自分がこれだけ激情の嵐に飲み込まれているにも関わらず、外界はいたって平穏だ。これは、自分が狂っているのか? 社会が狂っているのか? いや、そのどちらともなのか?
『ハングオーバー!』シリーズのトッド・フィリップス監督が手掛けた『ジョーカー』は、そんな話である。
バットマンの宿敵ジョーカーはこれまで何度も実写化された。中でもひときわ異彩を放っているのは、クリストファー・ノーラン監督作『ダークナイト』(2008)に登場するヒース・レジャー演じるジョーカーだ。
ヒース版ジョーカーはそのおどろおどろしいビジュアルもさることながら、最もかっこよかったのは「口が避けた理由」である。劇中、ジョーカーは3度、相手を代えてその「理由」を語るのだが、3回とも全く話が変わっている。つまり、すべてが真っ赤な嘘なのだ。
これが意味しているのは、ヒース版ジョーカーが“どこからやってきたのか分からない”ということだ。彼がなぜそうなってしまったのか。そして何が目的だったのか。それが分からないことの怖さが、『ダークナイト』のカルト的人気の大きな要因の一つだ。
そういう意味で、今作『ジョーカー』はとても野心的である。何しろ全編において「なぜジョーカーはジョーカーになったのか」の物語をたっぷりの悲しみと、怒りと、せつなさをもってして描くのだ。
この映画について「危険」という謳い文句が流れていて、安易にそういう安っぽい言葉を使うのはどうかと思うが、使いたい気持ちはよく分かる。この映画、あまりにもジョーカーへの共感・同情の気持ちが抑えがたいのである。日本人は「苦節○年」という言葉に弱いが、本作はいわば演歌だ。こんなコブシの入ったジョーカー、今までいたのだろうか。
ホアキン・フェニックス演じるアーサー・フレックは売れないコメディアン。普段は路上でパーティーピエロとして細々と生計を立てる。オンボロアパートに帰れば病の母親を看病する、孤独な優しい青年だ。
しかし、不運もかさなり、彼と社会をつないでいたか細い糸はぷつり、ぷつりと一つずつちぎれていってしまう…。
アーサーはコメディアンもどきであるが、そんな彼の孤独感を際立たせているのは、実は彼が志している「笑い」なのである。本作はさすがジョーカーが主役の映画とだけあって、「笑い」というもののもっている画一的で排他的な恐ろしい側面を効果的に使っている。
アーサーは神経を損傷しているために、自分の意志と関わりなく、緊張してくると勝手に大笑いをはじめてしまう。みんなが押し黙っているバスの中でも、自分が立っているコメディのステージ上でも、それは頻発する。
笑いはアンビバレントな行為である。本来、笑うことはストレス発散になりうる。人と一緒にいて、楽しい会話だと笑いもするだろう。本来それはポジティブな反応だ。
一方で、集団でいるとき、我々は一人で勝手に笑えない。一斉に笑うことは許されるが、他の人が黙っているところで一人だけ大笑いをしていたら、頭のおかしな人だと思われてしまう。
また、集団になって一部もしくは一人の人間を「笑い者」にするときの「笑い」は、強烈な排他性を帯びている。
こうした笑いの画一的で排他的な側面は、本作でも中盤のある2つのシーンで効果的に使われ、アーサーの孤独を描いている。社会から見放され、自分の居場所がないことを悟ったとき、アーサーの中でジョーカーはついに目覚めるのである。
ちなみに、映画ではここで、ジョーカーに対して「君と同じように社会から冷遇されても、一生懸命に生きている人がいる」という旨の説教を垂れるキャラクターが登場する。その直後にジョーカーにあっさり射殺される彼だが、この手の説教は社会への不満がきっかけで事件が起きるたびに出てくる繰り言だ。
こうした言葉が繰り返されるたびに思うのは「じゃあ、その、今まで“冷遇されても、一生懸命に生きている人”たちが一斉に怒りをぶちまけて行動を始めたらどうするの?」ということ。しょせんそうした説教は、社会の問題に正面から向き合おうとせず、個人に我慢を強いる言葉にしかすぎない。
閑話休題。
さきほど、ヒース版ジョーカーと大きく違う点について書いた。本作はここまで述べてきたように「ジョーカーがどこからやってきたのか?」を描いた作品であり、その点ではたしかにヒース版ジョーカーとは全く別物である。
ただ一方で、「ジョーカーがこれからどこに行くのか? 何をしでかすか?」についてはさっぱり分からない。その点では、実はヒース版ジョーカーと同様なのだ。
誰かがツイッター上で「(本作の)ジョーカーは革命家だ」みたいなことを書いて、随分おめでたいと思った。
彼を苦しめたのは経済的な問題だけではない。孤独であり、分かりあえる友達や恋人もいなかった。同じ貧困にあげぐ人々からも、アーサーは疎まれていたのだ。
今まで冷遇していたやつが、事態が変わってついてくるようになったからといって、ジョーカーはそんな彼らの言うことを聞いて動くだろうか? 彼は狂ったのだ。そんなの考えられない。
あらゆる怒りと不満をために溜め込んで覚醒してしまった彼が、つぎにどんな凶行を起こすのか。それが分からないことが、もっとも怖いではないか。誰が狙われるかは分からない。彼を狂わせたのは社会全体。誰が狙われてもおかしくないのだ。
幸か不幸か、トッド・フィリップスは本作を単発映画として企画しており、続編はないと現在のところ語っている。
あまりにも切なく、あまりにも悲しい空前絶後のジョーカーの“その先”は、ぼくら観客が夢想するしかないのかもしれない。