コロナですっかり劇場で鑑賞する機会が少なくなってしまったが、最近観た中で特に面白かった何作かについて感想を書いておきたい。まずは『透明人間』だ。
元々は「ダーク・ユニバース」シリーズとして企画がスタートし、それを断念した末に作られた本作。
…知らない人もいるだろうし、実際に知らなくても全く困らないのだが、「ダーク・ユニバース」シリーズはユニバーサルがブチ上げたモンスターシリーズだ。
ミイラだとかフランケンシュタインだとか、あの手の古典的なモンスターを現代風にアレンジしてカッコよくしてシリーズ化してクロスオーバーなんかさせちゃったりしてアベンジャーズみたいにすればイケるっしょ、とカーディガン羽織ったうさん臭いプロデューサーが立ててそうな企画で、第一弾の『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』(2017)がエゲツないコケ方をして、現在は企画自体がストップしている。
本当に「ダーク」(黒歴史)にしてどうすんだというツッコミどころはさておき、その中で『透明人間』も企画されたというが、「ダーク・ユニバース」シリーズとしての制作が断念され、紆余曲折を経て今回の『透明人間』に結実する。
しかし、この「断念」が結果的に圧倒的に良い方向に物事を進めたのだと思う。
というのも、本作の見せ所は旧来の「透明人間」ものとはあきらかに異質だからだ。
多くの人が知っているが、「透明人間」は今まで幾度となく映像化されている。古くは1930年の白黒映画。香取慎吾が素っ裸で商店街を駆け巡る土9ドラマにもなった。CGでこれみよがしに透明人間ならぬ透明ゴリラの臓器が徐々に消えてくさまを描いた『インビジブル』もある。
しかし、今はCGが当たり前になった2020年である。今さら「透明人間」をしたところで、摩訶不思議な映像に慣れきってしまった現代の鑑賞者の目は輝かない。おそらく、「モンスターを現代風にかっちょいい感じにすればイケるっしょ」と、迂闊な発想で進んで再起不能の複雑骨折を負った「ダーク・ユニバース」路線のまま作られたならきっと、本作も「透明人間」の描写に固執するあまり、ゲロスベりしていた公算が高い。
では、本作『透明人間』はなにの描写に重点をおいたのか。それは、透明人間そのものの恐怖ではなく、本作が描くのはあくまでも透明になっても消えるわけではない“人間の恐ろしさ”なのだ。
本作は、エリザベス・モス(『アス』で感じ悪い隣人夫婦を演じていた)扮するヒロインが、夫の寝てる間に必死の思いで家から抜け出し、避難するところから始まる。 夫は天才的な頭脳を持つ科学者だったが、同時に彼女を支配し、苦しめていたモラハラ夫でもあったのだ。彼女はつまりサバイバーなのだ。
支配的な夫からなんとか逃れられたヒロイン。居場所は隠し、安全な場所のはず。しかし、いつか夫が自分を取り返しにくるかもしれない、という恐怖で彼女の頭はいっぱいで、外も出歩けない。ヒロインの恐怖は、実社会のDV、モラハラのサバイバーが感じる恐怖そのものだ。
ここから映画は、この「今そこにいないはず夫への恐怖」に、「いまそこにいるかもしれない透明人間への恐怖」を重ね合わせる。それが見事なのだ。
間違っても、本作は「DV」「モラハラ」というものの“風刺”や“隠喩”の類ではない。それらのような回りくどいやりかたではない。本作はDV、モラハラのサバイバーそのものを描きつつ、「透明人間」という要素を使い、よりその問題を深堀りすることに成功しているのだ。
その後ヒロインは、死んだはずの夫は実は生きており、見えない姿で自分の近くにいることを確信する。
しかし、周囲の人間(主に男たち)は彼女の言うことを取り合わない。それはまるで、女性の発言を軽んじている男性社会の構図のようにも思える。
そして、クライマックスでは、それまでの卑劣な元夫のやり方に、ヒロインが見事な形で意趣返しをしてみせる。敵と真っ向から対峙したときのヒロインの“勝負服”が黒いドレスだったことの意味は言うまでもない。
本作は、「透明人間」というホコリまみれの古典キャラクターを、現代風にアレンジして見事に蘇らせた秀作だ。「ダーク・ユニバース」と決別して本当によかった。