いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

ぼくとTシャツとカレーうどん

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  白い一枚のTシャツを想像してほしい。あなたのお気に入りだ。

  それを着ていたとき、不注意にもカレーうどんを食べてしまい、汁が右乳首付近でオーストラリアみたいな形の小さな染みを作ってしまった。洗濯しても微かにオーストラリアがある。目立つ位置だ。


  そういう「汚れ」に気づいたときに、今まで大事にしていた分、あなたは落ち込むだろう。どうしてあのとき、カレーうどんを…なんて後悔するだろう。


  そうした明らかなミスでなくても、洗濯し続けていると、どんなに注意を払っていても、いつかはTシャツの細部は変化し、買ったときのすこし青みがかった「白さ」は失われ、どちらかというと黄ばんでいく。


  ぼくも前までは「せっかくの白Tが」派だった。


しかし最近は、落ちない汚れがついても、経年劣化で変色してきても、それはそれで「あり」なことに気づいた。たとえそれがどんなにお気に入りのTシャツであっても。

  ほら、汚れのつき方によってはポロックの絵みたいでカッコいいし。ごめんそれは言い過ぎた。


  もともとどんなに白かろうと、既製品なわけで、同じ白いのだったら、生産した数だけあるのである。ぼくがわざわざ、それを持っていても仕方ない。


  しかし、右乳首のところに黄色いオーストラリアのあるそのTシャツはたぶんぼくの持っている一着しかない。それはそれでいいじゃん、と思うようになった。「汚れ」であるどころか、それは「あるときぼくはカレーうどんを食べた」という証であり、一種の「ライフログ」なんじゃないかと思えてきた。


  実社会で「白いTシャツ」についた「汚れ」を思うことはいっぱいある。


  例えば、"いじめがあった"という事実を隠ぺいする学校の先生。

  学校なんて、未熟な人間が集まるのだからいじめも多少はあるだろう。起きてから対処したって遅くない。

  なのに、いつかしか「いじめはないことが望ましい」が、「いじめはゼロでなければならない」に変わり、さらには「いじめはゼロ、でなくてもゼロのフリをしなければならない」へとエスカレートする。


  これは、真っ白なTシャツを真っ白に保とうとするのではなく、汚れたおしたTシャツを真っ白だと思い込む、狂人の身振りだ。

  人はこれを無謬主義と呼ぶ。


  「真っ白いTシャツ」はどこにでもある。最初の「真っ白いTシャツ」を知っているがゆえに、人はその幻影にすがりついておかしくなっていく。「汚れ」1つにこの世の終わりのように落ち込み、カレーうどんさえ避け始める。あんなにおいしいカレーうどんを。


  「汚れ=ライフログ」説を唱えればもう何も怖くない。先日も、何年も着たおして元のデザインも変色しだしたお気に入りのTシャツを着て出社した。

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  会社で、上司に呼び止められて「それ、だいぶ色落ちてるけど、ビンテージっぽくて逆にいいじゃん」と褒められた。

  へへへ、これを褒めるってことは、ぼくの今までの人生を褒めてるってことですよ。口に出しては言わなかったけど、ほくそ笑んだ。